小説「旅人の歌ー 儒者篇」その29 - 俸禄 | 物語書いてる?

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 虎武者は文から目を離して、指で目頭を揉んだ。このところ目が霞んで、ものがよく見えない。だが文の趣旨は頭に入っていた。あの儒者の事だ。
 『…石扶持の士分と為し、屋敷を与え候わば、彼の者の気も落ち着くやに思われ…』
「はて、内府は何故に、儒者を欲しがるのか?」声に出して独り言を言ってしまってから、虎武者は口を塞いだ。
「又乃丞。おるか?入れ」
「ははっ」虎武者の用人が入って来た。
「例の儒者を、士にすることになった。内府のお指図でな。ついてはこの文の通りに計らえ」

 羅山が声を出して書を諳んじていると門の外で大勢の足音がした。羅山は、また儒者の身に何かあったかと、急いで表に出て行った。そこに裃を着た武士たちが、厳かな面持ちで入って来た。羅山を見た武士の一人が言葉をかけた。
「カラ国より参られた儒者殿はおるかな?」
 羅山はにっこりと笑って聞いた。
「私は先生の直弟子、林羅山と申します。只今先生所要中にて、私が承りましょう。ご用向きは何でございますかな?」
「はは。わかり申した。これに来るは、お祝いを申し上げるためにございます。儒者殿におかれましては、内府の特別のお計らいにより、士分として召し抱えの儀と相成りました。既に屋敷も手配し、これに裃も用意した次第」
 羅山は頭を下げると、取りあえず本堂へと案内した。その足で裏の畑に急いだ。儒者はこの時分、畑仕事をしていた。傍らには夫人と藤原惺窩が、本格的に着物を端折って腰を据えている。羅山は儒者に声をかけた。

 羅山が話を終えても、儒者は暫く黙ったままだった。そしてポツリと言った。
「この身は我が朝に捧げている。ありがたい話だが、受ける気はない。帰ってもらってくれ」
 羅山は惺窩を見た。惺窩は黙って頷いた。
「本当に、受けないと言うのだな?」虎武者の用人は羅山に聞いた。羅山は頷いた。
「貴様ら…。わかった。このことはしかと主人に伝えておく。者ども、引き上げるぞ」
 横で聞いていた猿回しは、茶屋に目くばせした。茶屋は眉根を寄せ、猿回しに頷き返した。猿回しは寺の門を出て行った。

 話を聞いた虎武者は激怒した。
「儒者を此処へ連れて来い。儂がこの場で首を落としてくれる。たかが捕虜の分際で儂を侮りおって…。目に入った床机を蹴倒した。その音に、平伏していた用人の肩がびくっと震えた。
 虎武者の家来たちは寺を急襲した。儒者はちょうど外から帰って来たところで、庭の池の前に座っていた。侍たちの前に、惺窩が両手を拡げて立った。
「問答無用」侍は一言いうと、惺窩の腰を蹴って転ばせた。羅山と夫人が駈け込んで惺窩を起こした。その間に侍たちは儒者を縛り上げた。
「首に縄を打て。その首、切れやすいように縄で慣らしてやる」儒者は腰を蹴られながらよろよろと歩いた。夫人がその儒者に後ろから抱き付いた。夫人は侍に髪をつかまれ、振り回されて地面に手をついた。
「『力』の前には、お前らは無力なのだ。思い知るがよい」侍たちは高笑いしながら、儒者を引っ立てて行った。その先頭の侍が、門の外から後退してきた。前から来た集団の『気』が、侍たちを押し返していた。その中心に、徳川家康がいた。

 家康は庭に床几を置かせ、その上に重い体をどっかりと降ろした。
「確か、石川又乃丞どのであったな。貴殿」じろりと侍を見据えた。虎武者の用人は、家康から出た自分の名に、思わずその場で平伏した。
「この儒者殿は家康が講義を受けた師である故、縛をほどいてはもらえぬか?」
 その言葉に、回りにいた侍が慌てて儒者の縄をほどきにかかった。きつく結んであったため、侍たちは焦った。家康は惺窩に軽く会釈して、そのまま儒者を導いて堂内に上がった。儒者を促して対面に座る。
「カン先生。この度は士分の取り立てを断ったとか。何故ですかな?」
 儒者はポツリと口を開いた。
「わが身は、我が朝に捧げている。この地で禄を食むわけにはいかない」
 家康は、表情から笑みを消して、じろりと儒者を睨んだ。
「士は、己を知る者のために死すという。これが日本における『忠』の心得である」
 儒者は片方の眉を上げた。
「儒教の精神は、お国だけのものではない。この国にもしっかりと根を張っている」
「…」
「我が家臣団は、誰に書を習ったわけではないが、これを性根に持っている。いわば貴国のような『東方君子』の下地はあるのだ。『蛮族』などという日本への誤解を改めてほしい」
「日本は、『蛮族』ではない、と申すのだな?」儒者が口を開いた。
「ならば、何故朝鮮無辜の民を虐殺したのだ?私が言うのは、非戦闘員のことだ」
 家康は、眼を外の池に向けて、少し細めた。
「あれは、儂の本意ではなかった」家康は顔を儒者に戻した。
「儂は、力に任せて何の思慮もなく外に攻めて行く国を作るつもりはない」
「儂は、全ての者に徳川への信義を持たせ、忠を心に植えてゆきたいのだ」
「それには先ず徳川が信を見せねばならんな」儒者の唇がめくれ上がった。
「ふむ。それもそうだな…そうなる日まで、儂に仕え、見届けてくれんかの?」
 儒者は、庭先の鳥にめを移した。まるで故郷の家の庭にいた鵲のように、二羽がつがいとなって走り回っている、
「私は、国に戻りたいのだ。どんな事があっても」
 家康の眼が光った。
「どうしてもか?」
「例え、殺すと言われてもだ。だから説得はあきらめ、気に入らぬならば私を殺すがよい。国に還れないならば、私は一刻も早く、家族のもとに行きたい」
 儒者は、小手をかざしながら雲を見上げた。
 その時、庭先で走り回っていた一羽の鳥が、チチチ…と鳴いた。後ろについていた鳥が、それに応えてチチ…と鳴いた。
 家康は儒者の眼を追って、つがいの鳥に辿り着いた。
「存念は、よくわかった」家康は腰を上げた。
「邪魔をした」惺窩に声をかけて、縁側を降りた。その背中は、丸まっていた。
「何?儒者を帰国させるだと」虎武者は思わず立ち上がった。
「これでは、儂の面目丸潰れではないか」
 天井を見上げて、蜘蛛の巣を睨んだ。
「このまま無事には帰さんぞ。絶対にだ」