家康は思っていたより、小柄な老人だった。片手を上げてひょいと縁側に上がると、スタスタと堂内に入っていく。まるで自分の家に入るかのようだった。
「こちらかな?」
用意された敷物の上に胡坐をかいた。横に本田正信が座る。供廻りの者は、庭に陣取った。対面するように、茶屋四朗次郎、藤原惺窩、儒者が並んで座った。
四朗次郎が口火を切った。
「本日は、内府殿直々のお越しとあって、いやもう、こちらはえらい慌てましたんや」
「茶屋。その方、こちら側についておったと思っていたが…」本田正信は眉を上げて言った。
「へえ、わては内府殿には格別のお目こぼしをいただいておりますよってに、勿論そちら側についております。ところが人間の心理はおかしなもので、わて、こちらの先生に心酔してしまいましてな。勝手に押しかけ弟子となっております」
「押しかけ…弟子とな」正信はにやりと笑った。正信は改めて儒者に向き直った。
「我々主従が参った次第は、貴殿の鍋島の一件における見事なる采配…いや仕置きの為にござる」正信は口を止め、儒者を見た。儒者は怪訝そうな顔をした。
「いやいや今回のことは、どう始末をつけたものやら、実は頭が痛かった。主筋の龍造寺は継嗣が幼い故取り潰しは理に適うとして。それをそのまま鍋島に与えれば、今度はその仕置きをした者が世間の恨みを買う。徳川は理に合わぬ仕置きをするのかと、非難を浴びるところであった。いっそ鍋島を潰した方が、よほど簡単かと…」正信は家康を一瞥した。家康はうっすらと目を開けている。
「ところが貴殿は、事もあろうに儒者が怪力乱神を方便にするという前代未聞の離れ業をやってのけた。いやいや不肖この正信、感服仕った」
儒者は目元を緩ませて微笑した。
「これで鍋島を潰すことなく、労少なくして始末がつき申す。何より、世間の眼が腑に落ち申そう。ところで…」正信は心持ち膝を詰めた。
「少々貴殿にご教授いただきたい」
儒者は黙って正信の眼を見た。
「『儒』とは何か?」
池の中で鯉がもんどり打った。水飛沫が、庭で控えていた侍たちにかかった。侍たちは、眼を大きく開けて池を見た。
本堂の中では、正信が言葉を続けた。
「お恥ずかしながら、実はそれがし…かつては僧侶であった」
正信はそこで言葉を切った。眼を本堂の仏像に向け、何かを見ようとしてその眼を細くした。
「遠い昔の事であったが…天下は麻の如く乱れていた。上は力を争い、親は子を殺して己を守った。皆が己の命を守る事だけに汲々とし、他者は己の敵としか見えなかった。だから、儂は仏教徒を集めて立ち上がった。そして…領主と戦った。その…領主が、殿である」その場にいた者の眼が正信から家康に移った。家康は半眼のままだった。
「儂は若く、そして権力を握る者に絶望していた。この世は悪意に満ちていた。そんな儂が信じられるものは人ではなく仏であった。人は変わる。唯一仏のみが変わらない。だから、仏を礎とした国を造ろうと夢見た」
外の庭では、陽が陰って雲が張り出してきていた。風が木々を揺らした。
本堂の中は静まり返っていた。その場の人々は、思い出したかのように仏像を見て、その目をまた家康に向けた。その眼はけだるげであった。反対に正信は己の中に入っていった。
「だが現実はそれを許さなかった。霊の存在の如き仏は独りなのに、それを具現する人々は宗派に分かれ、さらに権力を持とうとし、また権力に討たれた。かつて敵と憎んだ権力の端に身を置き、かつて戦った主人に仕えて、仏に代わって新しい世を造ろうとしている」
「仏に…代わって?」儒者がそこで口を挟んだ。
「ならば、何故他国の子女を侵し、老母の首を飛ばし、我が国を無間地獄に変えたのだ?」
正信の口が止まった。風が本堂の中まで吹いて来た。その風は音を伴っていた。その音は、人間の悲鳴に似ていた。
家康が口を開いた。
「あれは…」皆の眼が家康の口元に注がれた。
「儂の本意では、なかった」
人々は、その言葉を心の中に落ち着かせることができなかった。その言葉は蝶のようにひらひらと飛んだ。
「では、日本として、今後はカラ国を攻めることはないと、言えるのですかな?」その言葉は藤原惺窩の口から出た。
家康は、意外そうに目を開いた。
「何故、そのような事を聞くのだ?」
「また戦に備えているという、噂を耳にしたもので…」惺窩が言葉を返した。
「ふむ…」家康は、小首を傾げた。
「ところで…」正信が口を挟んだ。
「朝鮮では、何故仏教ではなく、儒教を国教としたのです?」
人々の眼が、儒者に移った。
「それは…」儒者は自分の記憶を探った。
「確か…ノバナガという人が華厳宗の寺を焼いたと聞いたが、合っているかな?」
一同が頷いた。
「あれと同じことだ。新しい朝は、乱れた夜を正すことから始まったのだ」
「ちょうど朝鮮は日本の百年先を進んでいる。朝鮮にも乱世があり、その中から出て来た英雄が高麗を造った。仏教を国教とした社稷はいつしか傾き、貴族に虐げられた武士が政変を起こした。力に頼る武士たちの政権は次々と替り、血で血を争う事態が起きた。ちょうどムロマツ幕府…だったかな、それと同じように…。国力の無くなった高麗は元に国を侵され、戦を繰り返した元も体力を失い、そして今の王朝が天より革命を得た。それが二百年前のことだ。その時王朝は、仏像を破壊することで新しい世の始まりを告げた。だが実際には、寺は各拠にあり、僧も日々の行をしている。全ての仏がなくなったという訳ではない。我々は仏の心は失っておらぬ。仏の名を借りた権力を潰したにすぎない。そして…」
誰かが喉を鳴らした。それは、家康だった。
儒者は、茶を一口啜った。
「新しい世には、国の礎となるべき、新しい考え方が必要だった。それが儒学から新しく生まれた、『程朱の学』だった」
「『程朱の学』?」正信が疑問を口にした。
「師の程昱と弟子だった朱子を指してそう呼ぶ。つまり朱子学だ」そこで儒者は言葉を切った。
「ところで、何故儒学を知りたいのだ?」
「それは…」正信が言いかけた。
「わからぬ」家康が呟くように言った。
「何故、二百年もの間、朝鮮が社稷を保っていられるのか?」
「どうすれば、徳川百年の計を立てる事が出来るのか?」
「それが、知りたい」家康はそう言って歯を見せた。