ご報告 | 渡瀬悠宇 OFFICIAL BLOG
こちらは随分とご無沙汰になってしまいました。すみません。

皆様にご報告を。

先月、1月26日、午後8時18分。
母が逝去致しました。

長い長い、発覚から20年近い肝硬変、それによる静脈瘤破裂、頚椎ヘルニア、鼠径ヘルニア、昨年からは腹水胸水、腹膜炎、腎盂腎炎、そして膿胸、急性腎不全…とボロボロの身体で、それでも最期まで生き抜き、戦い抜きました。

前回のブログで、サイン会横浜編を。
続けて1週間後の大阪サイン会のことをアップする予定でしたが。

横浜サイン会の2日前の入院時、主治医から「余命宣告」を受けました。
もう、肝臓腎臓が悪化していて、腹水が貯留している、最後の静脈瘤処置だと。

「もういつ急変してもおかしくはありません。延命処置はしますか?」
「…いいえ」

これを、あと3回聞くことになるのですが…

大阪から慌て戻ったときには、腹水を抜いた後でしたが、睡眠剤が合わず、半ば朦朧で泣いたり怒ったり。
歩いて入院した母は、ベッドに固定されて足に力が入らなくなり、歩けなくなっていました。

要介護2から5へ。
退院したいとの意志を、ケアマネージャーが汲んで下さり、急ぎ介護ベッドやポータブルトイレ、訪問医確保、介護ヘルパー要請…

在宅療養に移った場所は、友人たちが「私と同じ家屋に住めるところ」として急ぎ探してくれた新しい住まい。

でも、母は今後、無言の帰宅をするまで、一度も表玄関から入れず、地下からストレッチャーで運び込まれることになります。

家での介護。
アシさんが入っても、ネームなど切れません。リマスター原稿指示のみ。
母は根性で「もう一度立ってやる」と車椅子にトイレ移動。ポールに捕まって立ち上がりました。
この頃は、薬の影響と知らずに、なぜこんなにわめいて怒るのか、夜中も子供みたいに暴れて駄々をこねたり、泣いたりするのか不思議でした。
1週間後に腹膜炎高熱にて、別の病院へ緊急入院。

1週間泊まり込み、介護しましたが、心身限界で、地元の叔母に助っ人要請。

ここでもまた「ここまで悪いと、いつ容態が変わるかわかりません。延命処置は?」
…母の人格変貌はようやく薬の影響とわかり、やめることで心身落ち着きを取り戻し、峠も越して、叔母付き添いでもう一度我が家に。

その後、叔母は年末帰宅するも、1ヶ月は友人たちの助けを借りて、夜中から午前中はつきっきりで私が介護しました。
オムツをうまく1人で変えられたときは、本当に嬉しかった。

腹水の、臨月のようなお腹の重みで、なかなかオムツ変えを難儀してると、ガリガリに痩せた身体を、母はどこにそんな力があるなか、腰を持ち上げて、助けてくれました。

下痢が続いていたので、すぐに飛び起きれるよう、暖房もあったので服のままベッドの掛け布団に転がり、半纏をかぶって寝た日々。
寝返りが打てず、か細い骨に重みが乗って痛い痛い、と夜中に聞こえたら、小さいクッションをかましたり…でも、いつも最後は自分の手や腕を差し込みました。
そこにのしかかる重み。数分で手は痺れる。辛かろう、と胸が痛む。

ある時、眠気でグラグラで、突っ伏しながら腕を入れていたら、子供のように頭を撫でる感触。
「苦労かけるなあ」とか細い優しい声。
その後、優しく頭をポンポンポン。
「頭のツボ、気持ちいいやろ。
お母さん、こんなことしかしてやられへんから…」
右手はとっくにヘルニアで震えて痛みがあり動かせず、動く左手で労ってくれました。泣きそうになるのを堪えて、私は満面笑顔を見せました。

いつも苦しくてシワが寄ってる母の、ふとしたときの、とても優しい表情。
「今日も1日、ありがとうな」
「こっちこそ、今日も1日頑張って(生きて)くれて、ありがとう」
そんな会話を何度もしました。
「迷惑かけんとことおもてるんやけどな…」
「世話は嫌やないよ。ただ、お母さんが苦しんでるのを見るのが辛い」

夜中に何度も起きて寝不足だったけど、寝ぼけてうまくシモを洗ってやれないときもあったけど、汚くもないし、むしろ嬉しくて、そばでいられることに幸せさえ感じていて、このまま行けそうな気さえしていました。

週二回の腹水抜きは、腎臓悪化に伴い意味をなさなくなり、抜くたびに徐々に衰弱していくのを見かねて、別の病院に腹水濾過で栄養を戻す方法を頼みに。
でも、そこから退院した母は、腹水と引き換えの腎臓停止、全身脱水で、また先にいた病院に緊急搬送。

夜中に個室に入るまえ、医師に呼ばれ3度目の
「延命処置は…」
腎機能が潰れて機能不全。 
血小板が低すぎ、首から太い管を入れる透析も不可能。
回復の見込みはない。
数値は異常な値。
…ああ、今度は、今度こそ。
もう内蔵1つ1つが限界なのか。


最初に聞かされたとき。
医師から看護師から絶望的な言葉を聞くたび、家で何度も声を上げて泣きました
怖くて逃げたかった。
いっそ、母がいなくなっても誰も知らせず全部やってくれて、まだ病院だよって嘘を付いてくれないか、と現実から何度も目を逸らそうとしていました。

緊急搬送され泊まり込んだ翌日、一旦帰宅のつもりが、家で心身過労で倒れました。眠り続け、起き上がれない。
目覚めれば、「こうしてる間にも母が」との恐怖の肥大。

「逃げていい」優しい言葉、激励。
付き添いの友人たちの報告、お見舞いの報告、叔母たちの上京…

ようやく起き上がれて歩けるようになったのは、母搬送後5日目。
会いに行った母の、全身の浮腫に愕然。
それでも、腎臓からは健気にも尿がほんの少し。
ほんの少しでも動いて戦っている。

点滴投与に処理が追いつかず、尿毒素が回っている。
医師からは、腕、首、頭、足、痛み止めが効かないため、鎮静剤連続投与のお話。
頷いたものの、逡巡、迷い…

そんなことしたら、眠ったら、そのまま、お母さんはもう目を覚まさない

「朦朧としているはず」
そんな医師の言葉と反して、母の意識、認識、会話はしっかりしていたから。
それは、最期の時の寸前まで変わらなかったことは、思えば母の強さでした。

26日。
投与を見届けたら、いったん帰宅しよう…そう思って病院へ。
連絡した旧い友人に会った母の嬉しそうな顔。8年以上の前のことを、モゴモゴと聞き取りにくくなった声で必死に伝えてる。

…こんなに、しっかりしてるのに、薬を打つの??

でも、恐らくは尿毒素が頭にまわり、首から頭の痛みを一晩訴え、付いてる間もいくら角度を変えても、母の口からは痛い痛いいたい…

けれど、見守る中の注入は失敗。
浮腫でただでさえ細く潰れた血管に届かない。私はまだ帰れない。促されても、帰る気は無かった。

食事をしつつ迷って病室に戻った時に、母の呼吸が乱れていることに気づいて、慌て
医師を呼ぶ。
足からも無理。
残るは、胸の上に麻薬を入れることだけ。
頷くしか無かった。
お母さんが苦しくなくなるなら。

でも、母はそれをさせなかった。
医師を待たず、呼吸が徐々に弱くなる。
心電図がけたたましく鳴る。視界に入るモニターの数値の波が静かになっていく。

お母さん。

そのときの事は一生、忘れない。
私は母の頭を抱えて、目を見て、多分次のような言葉を、泣きながら叫んだと、思います。
「お母さんえらかったね!」
「お母さんは私の誇りや!」
「生んでくれてありがとう!」
「お母さんになってくれてありがとう!」
「弟(自閉症)のことは心配しいな!私のことも心配しいな!」

「お母さん、大好きや!!」

母は私の目を見つめていて、振り絞って
何かを言いました。
聞き取れない。
ただ「うん!うん!」

目がゆっくり閉じられていく。
呼吸が止まっていく。
二晩も、徹夜で看病してくれていた叔母が病室になだれ込んだ瞬間に、心電図が全てが、まっすぐになって

医師の時間の報告、
周りの泣く声、「よく頑張ったなぁ」と肩を四方から撫でられる感触、
まだ暖かいお母さん。
次々集まってくる友人、知人。
呆然の弟。



お母さんは、私の腕の中で、旅立ちました。
自分で痛みを超えて、最期まで私の目を見つめて、私の言葉を聞いてくれて。





その夜、母は初めて、表玄関から帰宅できました。
葬儀が混んでいて…慌て大阪から駆けつけて来てくれた叔父も伯母も驚いたけれど、母は、おかげで二晩、帰りたかった家で、ようやく眠ることができました。
二晩目は、暖房も入れられない仏間で、母の横に布団をかぶって眠りました。
肌の色も生前と変わらず。
硬直もない柔らかい身体。
頭を撫でてくれたときの、穏やかで優しい表情。
まるで楽しい夢を見ている笑顔。
今すぐ起きそうな、そんな横顔を見ながら。

そして、昨日になりましたが。
地域友人に寄るささやかな告別式が済みました。
死んでも何にもしなくていい、とは言われていたけれど。
今は、母はお骨となり、遺影と共に仏間に安置されました。

とても、とても最後の数ヶ月の濃い時間。
母は、介護も経験させてくれました。
「介護は、親がする最後の子育て」と言いますが、本当でした。

最期まで諦めなかった母。
直前、薬投与を伝えたら「いのちかけてまで?」「眠ったらそのまま死んでしまうやないの」

負けじと生きる気力で、医師に6日も持ちこたえて驚かせた母。
その前には「年内もたない」と言われたと知って、根性で新年、迎えましたね。

最期まで、私に心配も、後悔もさせまいとした母。

死を持って、その穏やかな笑顔で、「生も歓喜」「死も歓喜」を見せてくれた母。



「お母さん、私な、また生まれ変わったら、お母さんの子供になりたい」
「…なんで」
「お母さんが好きやから(ニィ~)」
何度かそんな会話したこと、忘れないでください、お母さん。
本当に今からそうなれるよう祈ってます。

先に行ってしまったけれど、またいつか。
私もあなたのように諦めず、自分の使命を果たし切って、生ききります。

ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。

あなたの子でいることが、最高の誇りです。
しばらく、休んでください。
私は、大丈夫です。


ツイッターで励まし、祈ってくださった皆様、本当にありがとうございました。
お通夜、告別式に参加頂きました、友人知人、出版社やアニメ制作の皆様、ご多忙のところ、お越し頂き大変ありがとうございました。

{57F54B2D-2481-41ED-ABFB-7C41BB4ACD30:01}
ワタシと
{DBC72AF1-4E3F-4785-AFC9-E91493165C64:01}
オカンと
{10939E2F-0462-4E2B-BDE9-748B1171D8BE:01}
ときどきオトン。笑


皆様、今後もよろしくお願い致します。