デモが続くエジプト・・・何が起きているの? | 中東情勢入門? ~マニアがご説明します~

中東情勢入門? ~マニアがご説明します~

 アラビア語・中東政治専攻、治安分析等々、中東8か国を訪問した男が、「遠くてややこしい」と思われがちな中東をご説明します。

(※著作権上、掲載できない図や資料は、リンクを貼らせて頂きました。探してみてね♪)

 中東と北アフリカが重なる地域大国
エジプトでは、2011年1月から様々な抗議行動や暴力沙汰が続いています。

 最近(2013年7月初現在)も各地でデモが再燃し、日本のマスコミにも取り上げられるようになっていますが、
 最近の情勢を短く言えば、
「大統領の辞任を求めるデモが拡大し、これに対抗して大統領を支持するデモも広がって、
デモ隊同士の衝突や、党の施設への襲撃事件などが続発している」

という状態です。

 記事を書いているまさに今現在も情勢がめぐるましく変化しており、7月3日には、
 軍が大統領を軟禁状態に置き、事実上辞任させた後、別の大統領を就任させました
 (※アフリカの紛争国では軍事クーデターは珍しくありませんが、軍が大統領を捕えるなど、エジプトでは現代史上初です。)

 実は、軟禁状態に置かれたムルシー大統領(日本のマスコミでは「モルシ大統領」)
2012年6月にエジプト初の民主的な選挙で選ばれた人物なのです。

 それなのに、なぜ支持者だった人までがそっぽを向くようになったのでしょうか・・・。

簡単に言えば、主な原因は2つです:

① 公約実行力への疑問
  
経済復興や治安改善などの公約を実現できていないから
② 有力なイスラム組織の出身
  同国最大の野党組織で、イスラム系の「ムスリム同胞団」出身だから

 は我が国の政治にも当てはまるので、分かりやすいですね。

 エジプトは、サウジアラビアやUAEに比べればエネルギー資源に恵まれておらず、こうした湾岸産油国ほど裕福ではありませんが、
中東・北アフリカ諸国最大の人口(約8万5,000人)を抱える経済大国です。

 2006年から2010年まで年間5~7%の高い経済成長率を誇っていましたが、
前の大統領に対する抗議行動(『1月25日革命』、後述します)と、それ以降の混乱で経済に甚大なダメージが及び、同年以降は2%にダウンしています。
 国外からの投資(企業の進出など)を示す海外直接投資(FDI)の額は2011年度にマイナスに転じました(UNCTADより。2012年度はプラスに回復したが、2010年度の半分以下)

 前大統領の頃から人々の不満を増大させてきたインフレも収まっておらず、消費者物価指数(CPI)は今年3月に2010年度比で8%も高くなっているほか、いわゆる貧困率も2009年度比で4ポイント上昇しました(2011年度)。失業率も上昇する一方です。
 また、深刻なエネルギー不足で、ガソリンスタンドには長蛇の列、停電もしばしばです。私は2007年~2008年の間に3回現地を訪問しましたが、当時はこれほどのガソリン不足や停電などとは無縁の社会でした。

 治安については、前政権による国民統制の"道具"と化していた治安機関(警察など)が、前大統領の辞任と同時にほとんど解体されたこともあり、統制が緩んで犯罪が急増しました

 エジプトではそれまで銃を使った金銭犯罪など稀な安全な国でしたが、メキシコなど中南米ほど危なくはないものの、凶悪犯罪が目立つようになりました。
 デモ隊と警官隊の衝突、デモ隊同士の衝突、さらには若者同士の喧嘩が流血沙汰になるカースも各地で相次ぎ、テロも2010年以降発生していなかったのに、リゾート地を抱えるシナイ半島で再びイスラム過激派が活動を活発化させています

 加えて、新政権が発足されてから、大統領の出身組織である「ムスリム同胞団」のメンバーが次々と要職に天下りし、専門知識もないまま行政を混乱させた、との報告もあります。

 エジプトの市民だって私たちと同じ人間ですから、このような生活に直結した不満が今回のデモの主要因であることは間違いありません。

 しかし、人々の不満の根底には、地元特有の背景もあります。
 それが上で挙げた
です。

 を簡単にご説明すれば、こんな感じでしょうか:
 「イスラム教のルールを政治・社会・経済に適用すべきという人々(A)と、
宗教に敬虔でない人々&イスラム教徒ではない人々(B)との間の対立が頂点に達し、
同じく
(A)に不信感を抱いていたが、(B)の抗議デモ拡大につけ込んで、クーデターを起こした」
 
 少し分かりにくいと思うので、時間を遡って、丁寧にご説明したいと思います。

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《参考図》 現代エジプトの政治体制


【 1950年代~2011年: 60年間の強権政治 】

 エジプトは1922年にイギリスから独立し、親英的な(極端に言えばイギリスの手下)政権が樹立されましたが、1952年に軍事クーデターで新政権が発足しました。
         (←日本の世界史の教科書では『自由将校団革命』、地元では『1952年革命』or『7月23日革命』)
 以降、ムルシー大統領の前のムバーラク(ムバラク)氏まで、軍の元幹部が大統領を務めてきました

■選挙

 大統領は2005年まで「信任を問う国民投票」を経て選出されてきましたが、事実上、現職大統領を囲む政権の中枢で決められてきた、と言う方が適切でしょう。

 2005年には候補者選択式の大統領選挙が初めて行われましたが、内務省(つまりお役所)が管轄する選挙管理委員会によれば、現職のムバーラク大統領(当時)が、対抗馬のリベラル議員ヌール氏に88%対7%の得票率で圧勝。
 しかも、その後ヌール氏は"汚職"を理由に投獄されました(2009年2月に釈放)。

 2005年以前の「国民投票」も信任票が90%代で、政権による不正工作は暗黙の常識でした。
 2005年の大統領選では、大統領の支持者が大量の票を投票箱に流し込む映像がアルジャジーラ(国際ニュースTV)で放映され、国民の怒りを買いました。

 議会上下院(人民議会と諮問評議会)の選挙は、大統領選に比べれば自由度が高いと言えますが、それでも、大統領が率いる国民民主党(NDP)が議席の過半数を割ることは決してありませんでした。

■言論統制
 
 選挙に加え、国民の実生活でも、国内の政治に関する言論は特に厳しく取り締まられました。
 2000年代に入るまで、新聞は与党NDP主導の議会上院が統括する公営新聞(例:アハラーム紙など)と、政権運営に支障が出ない程度の小さな野党(例:新ワフド党など)のみが発行していました。
 強い影響力を持つテレビやラジオは長い間、国営放送(エジプト・アラブ・テレビ連合=ERTU)の独占事業でした。

 2000年代に入ると、有力な実業家が民間の新聞やテレビ局(例:マスリー・ヨウム紙)を立ち上げ、マスコミの自由度は割と高まりましたが、大臣はさておき、大統領に対する批判や大統領に不利な報道はご法度でした

 巷では、公安調査局をはじめとする治安機関が反政府的な活動を見張り、この点では程度の差こそあれ日本と同じですが、
「非常事態法」(1967年~2012年5月)という曖昧な法律を根拠に、多くの反政府活動家が投獄され、弁護団抜きの法廷で実刑を課されてきました。

 自分が2008年に第2の都市アレキサンドリアを訪れた際、ホテルのオーナーと屋外喫茶で談笑中、自分が当時のムバーラク大統領をジョークのネタにしました。すると、オーナーに「外ではそんな話はしない方がいい・・・誰が見てるかわからない」と小声で注意されました。

 屋内でさえ政治の話題がご法度なサウジアラビアやシリアよりは自由でしたが(北朝鮮に比べれば100倍自由じゃないかと思います・・・)、それでも統制は人々の生活の奥深くに入り込んでいたのです。

■乱暴な「経済自由化」

 現代エジプトの歴代政権は社会主義に似た経済路線を採用し、大企業やインフラ業界の国有化、生活物資を安くするための補助金制度、新卒者への雇用保証などを続けてきました。

 しかし、そんなことをしていては、財政が赤字に陥るのは当然。1970年代に事態は深刻化し、時のサーダート(サダト)大統領が重い腰を上げました。
 彼は、生活物資の補助金を削減するなどの財政赤字削減策に加え、国外からの投資誘致などを始めました。
 世界銀行やIMF(国際通貨基金)主導の構造調整政策、平たく言えば「お金貸してあげるから、言うこときいて経済を自由化(=脱国有化)しなさいね」という方針を受け入れたのも、この頃です。
 
 その結果、今なお問題となっているインフレが蔓延し、1977年には食糧価格の高騰に対する暴動が各地で拡大、約80人が死亡する事態に発展しました。
 (2011年以降のデモは、エジプト史上初の抗議行動ではないのです!)

 1981年にムバーラク大統領が就任すると、こうした「経済自由化政策」はさらに加速、国営企業への民間投資が盛んになり、大実業家が次々と現れました。特に、ナジーフ内閣(1999年~2011年1月)は急進的な経済改革を推し進めたことで有名です。

 「経済自由化」の甲斐あって、確かに経済成長率は上がり、財政赤字は縮小しました。もし改革が行われなければ、エジプトは今や後発途上国になっていたかもしれません。

 しかし、ここで忘れてはならないのは、アラブ(やその他多くの途上国)で言う「経済自由化」と、日本で言う「経済自由化」は、実態としてかなり違う、ということです。
 経済・財政・金融・商業のルールが一応民主的に決められ、それに則る人の割合が高ければ、公平性の高い経済発展が望めるかもしれません。

 ところが、エジプトに限らず、アラブ諸国に滞在された方ならお分かりになると思いますが、アラブ社会では、日本とは比べ物にならないほどコネがモノを言い、ルールより権力がモノを言います
 つまり、有力者とのつながりを持つ人々が、就学・就職・昇進など、様々なチャンスを手にし易く、権力を握ったり権力者の庇護を受けたりすれば、ルール違反も免れやすくなるのです。
 その結果、特権的な人々のネットワークに入れる人々と、それに入れない人々とが、まるで別世界を生きるような歪な社会が出来上がります。
 (これは決してアラブ諸国だけじゃなく、中南米諸国、南欧諸国、ロシア・CIS、中国にも当てはまると思います)

 事実、アハマド・イッズ氏(イッズ鉄工社主)など屈指の実業家の多くは、ムバーラク大統領の親友や支持者が多く、
 一方、首都・最大都市カイロの周辺には、電力やゴミ収集が全く整備されていないスラムに近いような"不法住宅地域"が広がり、もはやカイロ首都圏の一部と化しています。

■ 地下で活動していたムスリム同胞団

 ムルシー現大統領の出身母体である、穏健イスラム組織「ムスリム同胞団(MB)」は、こうした特権ネットワークに無視された人々や、社会改革を望むインテリを中心に発展してきました。

 組織が結成されたのは1928年。当初は貧困層などを対象とした慈善活動に集中していましたが、まもなくイスラム法(シャリーア)などのイスラム的価値に基づく社会建設を目指して政治活動を開始し、大勢の支持者を獲得していきます。

 巨大な社会組織に成長したMBは政権にとって最大のライバルであり、政権を転覆させ得る脅威であり続けたため、MBに限らずイスラム組織全般の活動は厳しく取り締まられ、幹部らは何度も投獄・処罰されました。
 そのため、MBなどは秘密結社として、長い間地下活動を続けていきます。

 身を潜めるような日々が続く中、MBの内部で過激な思想を唱えるグループが出現したことは不思議ではありません。
 1970年代には、MBの元幹部サイイド・クトゥブが今やアルカーイダの支持者にとって「必読の書」となっている『道標』(マアーリム・フィー・タリーク)を著しました。
 1997年に日本人10人を含む62人が殺害されたルクソール(アクスル)虐殺事件を実行した過激派組織「イスラム団」も、MBの分派と考えられています。

 しかし、MBの幹部で世代交代が進んだことに加え、1980年代以降、無所属の肩書でメンバーが人民議会(下院)議員に当選し、政界進出を果たすようになると、
MB本体の政治思想は次第に穏健化、急進派は別の組織を結成するなど離脱していきました。

 また、MBは当時、政権転覆ではなく、あくまでも政権内での改革を方針に掲げていたため、公に反政府デモを呼びかけるようなことはありませんでした
 2004年に政府に対する抗議活動を決行したデモネットワーク「キファーヤ」のデモに、MBのメンバーは一部参加したものの、MBは組織として主導しようとはしませんでした。

 《参考》 ムスリム同胞団の公式サイト(英語アラビア語


【 2011年~: 長期政権の崩壊から国民の分裂へ 】

1月25日革命

 2011年1月末に始まったムバーラク政権に対する抗議行動は、25日にほぼ全土に拡大し、デモ隊と治安部隊や大統領支持派との衝突、双方のデモ隊による破壊行為などで、約3週間に800人以上が死亡する歴史的大事件に発展しました。 ⇒当時の写真集
 (地元では通称「1月25日革命」と呼ばれています)

 ムバーラク大統領がテレビ演説を繰り返し、内閣改造、再出馬断念などの譲歩案を発表する度に、カイロ中心部のタハリール広場に集まった何万人もの群衆からブーイングが上がりました。結局、大統領は2月11日に辞任を受け入れ、半世紀以上続いた体制が幕を閉じました。

 この革命、日本のマスコミは「ツイッターやフェイスブックなどの呼びかけに人々が結集した!」と絶賛しましたが、それは現象のごくごく一部を見ているに過ぎません
 確かに、経済発展でネットがある程度普及したものの、中流以上の若者しか家庭にネット環境の整ったPCを持っていないのが現状です(徐々に拡大しつつはありますが)。
 携帯のSMSや、アルジャジーラなどの衛星テレビ、ラジオ、そして何よりも、アラブ人最大のコミュニケーション手段、口コミが人々を動員したと言えます。

 そういう意味では、「4月6日運動」など、若者中心のデモネットワークが果たした役割は大きいです。

 しかし、デモ拡大の原因が何にせよ、これまで何度も危機を乗り越え国民を統制してきた長期政権、ウワサに流されやすく、まとまりのない民衆が抗議しているがために、退陣を決意するでしょうか??
 この強気な政権に退陣を余儀なくさせたのは、実はムスリム同胞団だったのです。

 
ムスリム同胞団は、抗議行動が拡大した当初、支持者による自主的なデモ参加を阻止しなかったものの、抗議行動に積極的に関わって再び政権に弾圧されることを恐れ、むしろ民衆に自制を促すような声明を出していました

 英BBCも、「MBは当初目立たないよう努めていた。デモでMBのスローガンが唱えられることはなかった」と報じています。

 しかし、ムバーラク大統領が譲歩を出し続けるようになった2月初め、MB指導部は「政権を転覆させ、挙国一致政府を樹立するべきだ」との声明を発表、するとタハリール広場など各地のデモの規模は一気に膨れ上がりました
 大統領が辞任したのは、同月11日のことです。

 その後、政権内でムバーラク大統領のライバルとされてきたタンターウィー国防相・軍最高評議会議長が暫定政権を握りました。
 もしかしたら、同国最大の野党組織であるMBが反旗を翻したのを切っ掛けに、政権の内部で"クーデター"が起きたのかもしれません・・・。

■ 軍VS同胞団、進む国民の分裂

 「1月25日革命」はムバーラク大統領の退陣をもってお終い、とされていますが、
 よく考えてみれば、暫定政権を引き継いだのは、前政権の国防大臣で軍の最高指導者でした。
 タンターウィー氏はその後、ムルシー大統領の任期が始まる2012年6月まで、ずっと政権を率いていました。

 強権政治の象徴であった非常事態宣言が解除されることもなく、当然、一連の混乱で経済が回復する訳もなく、タンターウィー氏率いる暫定政権への不満は募る一方でした
 暫定政権を率いる軍を批判したブロガーが、
ムバーラク政権下と同じように、軍事裁判にかけられる事件まで発生したのです。
 
 この頃、1月25日革命の抗議行動に参加した勢力(「4月6日運動」などの若者のデモネットワーク、野党各党、ムスリム同胞団(MB)などのイスラム組織etc)は、『打倒暫定政権』という大方針の下に、ある程度まとまっていました

 MBは新政権での主導権を睨み自由公正党(FJP)という政党を結成、世俗・イスラム・左右を問わず、今や政府に届け出ているだけで30以上の政党が存在します。
 ⇒2011年当時の政党一覧
 MBは暫定政権初期、デモネットワークや世俗・リベラル政党などあらゆる組織を集め、広範な政党連合を結成しましたが、やがて国民の間で宗教的立場や政治思想をめぐって亀裂が深まり、それに連れて政党間の連携もバラバラになっていきました

 亀裂に拍車をかけた原因は、この2つです。
 ① 超保守イスラム派(サラフィー勢力)の台頭
  MBと暫定政権の結託

 まずは
から。
 エジプトの「イスラム勢力」、つまりイスラム教徒の中でも敬虔な人々は、決して一枚岩ではありません。
 大きく分ければ、MBのような穏健派に加え、超保守派、そして暴力に訴える過激派の3つから成ります。
 (※イスラム勢力や世俗勢力など、中東の人々のカテゴリーについては、別の記事『中東にはどんな人が住んでいるの?』をお読み下さい)
 
 前政権の崩壊と同時に目立つようになったのは、2つ目の超保守派(通称「サラフィー派」)です。
 イスラム教の教えを広く社会に適用しよう、という考え方自体はMBなど穏健派と同じですが、サラフィー派の考え方は、「女性は黒いベールで全身を覆うべきだ」「観光客にも酒を出すな」など、教えを極めて厳格に守ろう(守らせよう)とする点で、穏健派と異なります

 サラフィー派は政権崩壊以前、穏健派のMBとは逆に、「政治はイスラム教に反している」という考えのもと、政治には一切関わろうとしませんでした。
 しかし、彼らにとってライバルとも言える穏健派が政治に積極的に関わろうとするのを見て、街頭デモや政界進出に踏み切ります。2011年5月にはサラフィー派政党「ヌール党」が結成され、強い動員力を背景に、FJPに次ぐ規模の政党に成長しました。

 また、サラフィー派の人々の宗教に対する思い入れは非常にアツく、イスラムのためなら強硬手段に打って出る人も少なくありません。
 そのせいか、サラフィー派の住民によるキリスト教徒や教会への襲撃事件が各地で相次ぎます
 2011年10月には、南部アスワーンでの教会破壊事件を切っ掛けに、首都カイロの国営放送前でコプト派キリスト教徒が大規模デモを決行、治安部隊やサラフィー派との衝突で30人近くが死亡しました(「マスピロ事件」)。

 穏健派は、同じイスラム勢力であるサラフィー派との関係維持に困る一方、世俗派勢力(=宗教に敬虔でない人々)やキリスト教徒は、サラフィー派を含むイスラム勢力の台頭に強い危機感を抱くようになったのです。

 2011年末から2012年初にかけて実施された議会下院選挙で、ムルシー氏率いる政党連合(MBが主導)と、サラフィー派の政党連合が合わせて65%以上獲得したことも、危機感を高めた一因です。

 中でもMBは、その後行われた上院選挙でも圧勝し、着々と政権獲得(=大統領選挙での勝利)への道を突き進んでいきました。

 しかし、唯一ぶち当たった壁は、軍が率いる暫定政権の存在です。
 軍と強く結び付いていた歴代政権がMBを敵視していたことは既に述べましたが、この暫定政権も当然例外ではありませんでした。

 そこで、MBは暫定政権と水面下で交渉を続けた結果、両者は徐々に歩み寄り始め、MBは反政府勢力の中でどこか浮いた存在になりました
 これこそが、
の原因です。

 暫定政権の許可に基づき、2012年5月~6月にかけて大統領選挙が行われました。
 16人もの立候補者が出たこともあり、選管はうち4人に対して「国籍規程」や「推薦者不足」などを理由に立候補を取り下げるなど、ハチャメチャとも言える立候補者の絞り込みを断行しました(一応、エジプト初の民主的な選挙でしたが…)。

 その結果、決選投票に上り詰めたのは、MBのムルシー自由公正党党首、そしてムバーラク政権下の大臣シャフィーク氏の2人でした。
 キリスト教徒や世俗派の一部はシャフィーク氏に投票したようですが、当然、前政権の復活を恐れる大半の国民はムルシー氏を選ばざるを得ません
 4割と低い投票率の中、ムルシー氏は得票率51.7%という僅差で当選しました。

 とりあえず、前ムバーラク政権の"残党"が大統領に選ばれる事態を回避できた訳で、
就任演説にはMB支持者以外の人々も駆け付け、バラ色のスタートかに見えました。

 しかし、大統領が発足させたカンディール内閣には、35人中12人の大臣がMBの関係者、さらにはサラフィー派の大臣も任命され、世俗派にとって不満の残る人選でした。
 ムルシー新政権は権力を握るや否や穏健さを失い始め、MBやサラフィー派など、イスラム勢力寄りの体制づくりに走ってしまったのです

 一方、軍との関係では、暫定政権を率いてきたタンターウィー氏に同国最高レベルの「ナイル勲章」を授与して"名誉退職"させ、新しい参謀総長に若手のシーシー氏を任命するなど、
 表面的には対立を回避していました。

 ところが、軍は冒頭に述べたような反ムルシー気運が高まると、スキを見て政権転覆にかかりました。両者は常に駆引きを続けていたのです。

 軍は今年7月4日、同じくムルシー政権と対決してきた最高憲法裁判所のマンスール長官を後任の大統領に任命しました
 マンスール新大統領は、世俗派でキリスト教徒のアルバラダーイー(エルバラダイ)元IAEA(国際原子力機関)長官を副大統領に任命。
 
 このように、"アラブの春"の一環である「1月25日革命」を切っ掛けに、エジプトは分裂状態に陥っています。
 これは、アラブ諸国の政変を支持してきたトルコ、カタール、欧米諸国、そして日本にとっても、大いに考えさせられる問題です。

《参考図》 最近のエジプトの勢力関係図 (2013年7月11日現在)