真我への学びを諦めなければ道は繋がってゆく-失った前歯と知人とのシンクロ | The trumpet shall sound!~魂の目覚めの福音をお届けします~

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愛と感謝にあふれた「内なる神」を生きようと出た、意識の統合の旅。想念観察や赦しにより道中で得た『叡智』を分かちあっています。

※24/8/29お知らせ 一部加筆修正しました。記事の主旨には変更はありません。


こんにちは。
ここ数日、残暑厳しい中でも秋の気配が感じられるようになりました。
先日のお盆の時に、父の実家に顔を出してきました。
亡くなった父(の霊?!)とともに、「一緒にご先祖様に会いに行こう」ということで、母と三人?!で出かけました。
父の実家は農家です。
最近は近所でも高齢化が進んで畑や田んぼに手が回らなくなり、そのまま放置されているところがあると、実家の人達は心配していました。また、最近の気候変動により、ホタルがいなくなった、という話も。私が小さい頃(40年以上前)は、沢山いたのですが・・・。
今年は、昨年の猛暑の影響で米不足とのことですが、段々こういう気候変動によって、人々は必要に迫られて自分で食べ物を育てるようになるのかな、と先輩と話していました。自分たちで自給できる分は作っていこうというのは大切だなと改めて思いました。我が家は、米はまだ作っていませんし、畑も自給と言えるほどの収穫はないはないのですが、近年中には自給率も少し上げて、米も育てたいと思いっています。

 

従姉妹からの亡き父への花束


最近、色々な人達と話をしていると、色々な分野で限界が見えていると感じています。

そんな中でも、真理探究の道を諦めなければ、限界突破の可能性は出てくるものだ、と思ったことがありましたので、記事にして分かち合おうと思います。それは、「真我への道こそ、次へ繋がってゆくことだ」だと改めて思ったことです。私の失っている前歯のことと、難病になったAさんとの間での学びです。

🌿私の前歯についてと、失った歯をスピリチュアルの理解で生やそうと考えるまで


 私は、前に歯の話題を書いたことがあります。(私の過去の参考記事:虫歯、歯のトラブル(歯根の膿)からのスピリチュアルの学び

実はその記事は、私のブログの中で一番読まれている記事です。誰かが、私のブログとリンクを繋いでいるのでしょうか、そのページだけたくさん読まれていることがわかりました。

 永久歯は、いったん虫歯になったり、何らかの原因で失ってしまうと、もうそれ以上は回復せず、削るとか似たようなやり方以外、治療法はない、二度と生えて来ないものだ、と世間では思われています。他のスピリチュアルをやっている人には「自然のままでいいじゃん、失ったものを回復しようとするのは止めなよ」と言われたりしていました。
 私は「歯のトラブルこそ、誰もが罹りやすく、治療の難しい難病だ」と思うのですが・・・。

 私は、前歯を高校三年生の受験勉強まっただ中の、夏休みに、事故で失っています。それ以降、ブリッジを処置してもらい、その後は、インプラントを入れたので、見た感じは普通です。
 ところが、ブリッジによって犠牲になった隣の歯は、そのためにかなり削られ義歯をかぶせられていたので、もう普通の歯としては機能しなくなっていました。そして、その歯も虫歯で歯根幹がやられてしまったため、ついには失っていました。そのため、またインプラントをしようかと悩んでいました。しかし、今はもう、手術をするのも嫌で、ウダウダ言って先送りをしていました。結局その部分は、ニセモノの歯を強力ボンドで付けてもらうことでなんとかしのいでいました。ところが、最近、よく取れてしまうようになったため、いよいよ決断が迫られていたところでした。

 私の歯が弱く、虫歯になるなどトラブルが多いのは、父譲り(家系)です。そのため、歯が丈夫になって欲しい、新しい歯が生えてきて欲しい、という願望を常に抱いていました。父も、若い頃から総入れ歯だったのですが、家系だ、と、諦めたくはありませんでした。きっと、父と同じような、家系全体の「思い癖の傾向があるはず」と思って、それをたびたび探ってきました。

 私は、上述の通り「歯について」の観察をいったんまとめています。その後も、スピリチュアルで回復させたいと思っていて、密かに、アセンデットマスター達や背後の存在と対話を少しずつ重ねてきました。
一端失った大人の歯が生えてくるということについては、前例を聞かないことと(でも、知り合いに、一度永久歯が抜けた後、再び生えてきた人もいる!)、自分でも、前歯が再生されるところまでに「真理の理解」を持って行くには、自分の中での自信がまだ強く固まっていないと感じられる部分がありました。

 マスターたちや背後の存在たちとの対話の中のすべてが、理解につながるものとか、解答になるものではなくても、よく見ていると、回数を重ねるごとに、そして、私の学びが深まるごとに、少しずつ的確な答えが返ってきたり、ストンと腑に落ちることも出てきました。

 私は、「折れた骨が再接着するのになぜ歯だけがそうならないのか、おかしい」と思い、「そう考えると、前歯が生えてこない方がおかしいのでは無いか」と思えるぐらいに、理解が深まってきていました。つまり、大衆意識で信じていることに、疑問を感じるぐらいになってきていたのです。一方では、真理を知識として「私たちは永遠無限が中心であり、生命そのもの」とか、「病も本当は自分で治せる」と学んでいても、歯に関しては実践レベルに落とすにはまだ距離があったのですが、次第に縮まってきた感じがしてきました。

 そうこうしている中、失った前歯の、仮の歯を入れているところには、そろそろ何かを処置しなくてはならなくなり、決断を迫られるようになってきました。
それで、とりあえず歯が生えてくるまでは、入れ歯で凌ごうと「保留」の選択をして、自分の可能性に賭けることにしようと思い始めました。

🌿入れ歯の決断は、未来の「学びの結果の可能性に賭ける」こと

 このような決断ができるようになってくるまでには、何度も、時間を掛けて、サポートしてくれている見えない存在たちや、アセンデッドマスターと対話をして、気づきを深めていました。また、『脳科学が教える新しい自分になる方法 あなたという習慣を断つ』の本の著者、ジョー・ディスペンザ博士の本を読み、「思考だけで、難病治療や、切開しない複雑骨折の治療も可能」ということは知っていたので、「歯も同じ原理でできるだろう」ということは、頭で理解していました。それから「自分の身体の設計図(青写真)」というものが存在する、と、先輩から聞いていたので、気づきを深めることによって、意識の統合を通じてそれが思い出せれば、歯の再生は理論上可能だ、と思えるようになり始めていました。

 その後ろ盾となったのは、「真我の方がエゴより強い」という気づきが、ある日突然感覚的に入ってきたこともあります。それより、現実レベルで「歯を生やすことも、無理ではない」と思えることが次第に増えてきました。そのため、歯にまつわる気づきを、理解に落とし、実践し、意識を統合すること・・・完全性を体現することで、自分自身を「再誕」させていくことにより、「歯を再生させよう」と思ったのです。

その道中で、今一番取り組まなければならない学びは、「病や、なんらかの、肉体にとってダメージになる価値観や攻撃性を、自分自身の肉体に投影することを止める」ということです。そうすれば、再生はグンと早まります。これから、それを、観察していきたいと思います。(今後、前歯のトラブルとして、ブログ記事に詳細をアップするかもしれません)

 

 現在はまだ、「不安に思うこと」や「自信を持てないこと」も感じられます。そのため、最悪の場合、インプラントの選択肢も残せるよう、「入れ歯」という「未来にどっちでも行ける選択肢」を今は選ぼうと思っています。
肉体的には入れ歯の使用は不快です。が、意識の世界での気付きが肉体や細胞レベルに定着するには時間がかかります。そのため、現実的には「時間稼ぎ」のできる選択肢はありがたいものです。インプラントを今入れてしまえば、もうそこに歯が生えてくることは諦めてしまうかもしれません。「入れ歯」という、不快な状況を耐えることで、「早く再生させる」と思える余地を残しつつ、学びを続けようと思っています。ちょっと自虐的?というか、自分に負荷を掛ける感じですが、それでも「忘れないこと」は、完全性の体現に向けての学びを持続して行くには良い「ニンジン」となるかなと思っています。肉体的には不愉快でも、意識の上では「可能性がある方に賭ける」のが、今のベストな選択、と思いました。

 そのため一応、コスト的にはインプラントよりも低く済むことになり、所持金に限りがある私にとっては、ありがたい選択です。お金は有限ですので無理のない範囲で、そして理解は無限なので、こちらの方を深めていこう、と思っています・・・。

🌿私とAさんとのシンクロと、「私たちの中心に真我がある」という理解の大切さ

 その決断が決まると、(以前より話題になっている)難病に診断されているAさんの方も、動きがあったことがわかりました。
母親から、「Aさんが、特殊な薬を手に入れるために結構高額になる自由診療を選択するようだ。少しでも病状が悪くならないように維持することができるようなので、それを現在の治療として選択すると決めたそうだ」と聞きました。  

 Aさんは、現在国の保健の範囲では、病にハッキリ効く薬も無く、その後期待していた薬も手に入手出来なくなったことで「自暴自棄」の様子でした。でも、いよいよ自分から「何としてでも生きるために、できることに思い切ろう」という気持ちが出てきていることがわかりました。

 振り返れば、私が統合失調症になったときも、先輩が側にいて、「側にいる人が一人でも、真我が中心である、ということを知っていることにより、助かる可能性が出てくる」と聞かされていたことがありました。

 当時の私も、Aさんのように自暴自棄でした。その後も度々、自暴自棄になりましたが、その後は、自分の意志で「真我というものが中心にある」「私の本質は、永遠無限」という学びを、『奇跡のコース/奇跡講座』や『心身の神癒』などのしっかりした真理の教科書から学び、自分に刷り込んでいきました。また、「宇宙人からのメッセージ集」により、不必要な不安恐怖やエゴをから離れ、自分自身を整理してきました。
 そのおかげで、真の自分は「神の子」である、と腑に落ちたとき、初めて「依存(彼氏や誰か男性など強い人に頼らなければならないという思い込み)」から解放されたのです。それ以来、自分の中の色々な「依存」や「二元論(善悪)」「エゴ(自我)」を自覚し、離れることが出来るようになりました。

 多くの人達は、自分の「中心(本質)」を、「病の自己」や「社会的地位」とか「○○さんの妻」だの、色々な名称でくくって、自分のアイデンティティと錯覚し、その役を演じているだけなのですが、真実の立場から言えば、それらを「自分の本質」と取り違えているにすぎない、ということですね。本当の自分というものは、「真我(完全なる自分)」しかないのです。「エゴ、現世的なもの、自分の外側のもの」は、条件が変われば変わってしまいます。それに、「しがみつく(執着しすぎる)」という方が、本当はとても不安定で、怖さは増すのです。その時、ちゃんと「ああ、これじゃぁ自分は不安になってしまう、永遠無限という宇宙の父(創造)が自分の内側にもあり、自分はそれと同じだ」という方を「信じる(理解する、血肉にする)」ことがなければ、このままでは、自分が持続可能では無い、と感じるのは当然のことです。つまり、それこそが、魂への目覚め(無限への目覚め、すなわち、スピリチュアル)ですね。

 Aさんの周りで「真我が中心である、肉体やエゴではない」ということを知っているのは、現在は私だけです。

 私の場合、先輩が側にいて、そのことを理解していてくれたのですが、今度はそれを、私が理解しておく立場になっているようです。だからといって、特に直接、真理について話しをするわけではありません。自分がただ、自分の場において理解を深めていれば、近親者の中に、何らかのかたちで受け取る人がいるでしょう。自分の知らないところででも、同じようなことで悩んでいるひと達が、何らかのかたちで答えを受け取っているかもしれません。今までも、なんとなく自分の気づきが他の人に影響を与えてきたような例は見ていますので、今回のAさんの件も、私の気づきによりシンクロが起こっていたようでした。Aさんの無意識の領域では、何かの気づきとして受け取られ、それが、Aさんの新しい選択として現象化したのかな、と思いました。

 Aさんはちょっと奥さんに依存しがち(頭が上がらない)ところがあります。しかし、周りの力を借りてでも、自ら立ち上がろうとし始めたのは大きな変化です。そして何より、お金に関してうるさいAさん夫妻が、「お金より生(命)を大切にする、今を生きることを大切にする」を選択してくれたことが非常に良かったと思っています・・・。
 本音を言えば、そんなに命の選択に迫られてからでないと変化しない、というのもどうかと思いますが・・・私自身人のことをどうこう言える立場にありません。人は崖っぷちに立たされなければ、気づけないこともあるんだ、ということ、そして、それは、過去の私もそうだったことを見て、赦しました。回り道かも知れませんが、一歩踏み出してくれたことは、本当に良かったと思っています。
 Aさんが、いずれ、「宇宙の父のところへ帰らなきゃ」と思ってくれるまでになったら・・・とは思うのですが・・・期待はいけません。根本的な解決にはそれしか道はないのですが・・・。もちろん、最後は自分で這い上がる(自身で自らを助ける)必要があります。とりあえずは、目の前に立ちはだかる最悪の事態を避けようとしている意志は感じられたので、少しホッとしています。本当は、Aさんの新しく選択する治療の期間は、私の「入れ歯」と同じような「時間稼ぎ」にはなるのですが・・・本人がその間に目覚める方向へ進むのでしょうか・・・。神のみぞ知る、です。


 Aさんがこのような選択になるまでの背景では、母と私は、Aさんとその家族に対して、ずっと祈っていました。
 祈っていて、たまに、「もうやっても仕方が無い」とか「もうAさんたちのために祈らなくてもいい」とか色々想念が流れて、止めてしまいたくなることもありましたし・・・「早く幻想から目覚めなよ」と自分がやりたくてやっているのに(Aさんに頼まれてもいない)、こちらが勝手にムカムカ思うこともありました。😅

 そういう中でも、Aさんと私の間での過去の投影関係について、私なりに気付いて「赦し」を実践してきてはいました。これからも、私の方で、まだ投影していたことがあることを、整理しようとしていたところでした。
 こうして、私自身の学んでいる中で、気付きがあり、統合されてくることがあれば、少しずつ「外堀を埋める」ということになっていたことがわかりました。(前に書いたブログ参考:「全託」と「ぶどう園の労働者と主人」のたとえ(マタイの福音書20:1-16)- 前編 と 後編
過去からの実践の積み重ねは、少しずつですが、効果を発揮してきたようです。

 こうして、真我への学び(完全性への道)というものは、諦めずに続けていると、自分自身の赦しが進み、統合によって囚われや狭い視野から解放されてくるにつれて、様々な可能性が開けてくるとわかりました。
 それは、チャレンジとかそういう感じではなく、気づきが理解に落ち、血肉になってくるたびに、静かに「可能性という扉」が開いていくものなんだな、そうして「道は永遠無限へ繋がってゆく」のだなという感じがしています。

 

朝靄の中で続く道

 

 私にとっては、真我への道を探求すること・・・それは、「生命そのものが自分であることを知る」ことが「現世利益よりもはるかに価値がある」という理解が、もっと自分の血肉にできれば、歯の再生も早くなるんだと思います。

 そして、道を歩めば、その光を受け取る人がいるんだな(シンクロ)、とわかってきました。これまで、「自分は何もしていないし、自分には何も成果がないし」とふてくされ、自分の存在価値がよく判らずに思い悩むことも、まだたびたびあったのですが、どうもそうでもなさそうな部分もあるようだと感じ始めています。
 

今日の話題はここまでです。
何か参考になったことがあれば、幸いに思います。
お立ち寄り下さり、誠にありがとうございました。

 

よろしければ、この後「音楽のお楽しみ:バッハ教会カンタータ」をつけています。

今回の記事にあった曲で、励まされる内容ですので、お時間があればお立ち寄りください。

 

 

🌿音楽のお楽しみ:バッハ教会カンタータBWV155「わが神よ、いつまで、ああいつまでか」
BWV155"Mein Gott, wie lang, ach lange?"

 

この曲は、バッハが教会での礼拝のために作曲・演奏していた、「教会カンタータ」の一つです。
いつもご紹介させていただいていますが、今回は、「BWV155わが神よ、いつまで、ああいつまでか」を、いつものように、スピリチュアルの意訳付でご紹介いたします。

私たちスピリチュアルをやっている人達にとっては、神とは、「内なる神(真我)」です。
創造が「神」と同じであり、私たちは、その「神の子」という位置づけです。

スピリチュアルを学んでいくということは、「実在世界への橋を渡ること」です。(ACIMテキスト:第16章VI実在の世界にいたる橋)
その間、とても不安になったり、いつも(現象世界で普段感じていること)とは「違う」感覚が入ってくると、戸惑ったり、不安になったり、「いや違うのではないか」と迷いが生じて、古い世界に戻ろうと迷ったり。
そうして「不信」に飲まれて、エゴに没入し、「希望を失う」こともあります。
このような心の揺れを、この曲はよく現わしています。
そして、この道を歩むと「今までのようには喜べない」と思うときもあります。しかし、それは、最後に橋を渡ると、「きっと喜びになる」と、希望を見出しながら、学びの道を歩み続ける・・・真我への諦めない気持ちを支えてくれるような、曲と感じられました。
そのため、今回の記事の話題と合わせてご紹介しました。

歌詞を読んでいただけると、それがよく判ります。
イエス様も、私たちの兄貴分として、それは「神の使い」と同じように、私たちを助けてくれています。
他にも、自分たちには背後の存在や、日本の神様や、宇宙人などのサポートがある人達もいたりするでしょう。
その、目に見えないサポートを受けながらも、時折「疑ってしまう気持ち」に対して、「信じなければならない」と、なんとか前に足を踏み出していくよう、励ましてくれます。
よろしければ、お楽しみください。

 

とりあえず、一番ご紹介したい「アリア」だけを、音楽付きでご紹介します!

この曲のアリアの部分は、バッハ・コレギウム・ジャパンで歌っていたときの米良美一さんが、桜田亮さんと一緒にデュエットしています。お二人のとても美しいハーモニーが大好きでよく聞いていました。

これまで同じ曲のデュエットを色々聞いてみましたが、このお二人のデュエットに勝るものは無い!!と言いたくなるぐらい美しいのです‼️

たまたま、ネット上で見つけましたので、拝借させていただき、みなさまにもお聞きいただけるようリンクいたしました❣️

ぜひぜひ聞いてみてください。

 

Du mußt glauben, du mußt hoffen(信じなくてはならぬ、希望しなくてはならぬ)

演奏:バッハ・コレギウム・ジャパン (曲は、「米良美一-トピック」さんのYoutube動画を拝借させていただきました)

 

 

アリア二重唱 アルト・テノール 日本語歌詞

信じなくてはならぬ、
希望しなくてはならぬ、
神に安らかに心を委ねていなくてはならぬ!
イエスは正しい時を知り、
お前を助けて喜ばせて下さるのだ。
憂いの時が消え去るとき、
御心はすべて、お前に開かれている。

 

今回の話題の曲の全日本語歌詞を付けておきますので、曲全体をよろしければお楽しみください。

また、この曲を全部聞ける動画も最後に付けておきますので、ご興味のある方はどうぞお楽しみください。

 

BWV155全日本語歌詞 
(歌詞引用:ヨハン・セバスティアン・バッハ カンタータ全曲シリーズVol.5ーワイマール時代のカンターター、バッハ・コレギウム・ジャパン より拝借)

1-レチタティーヴォ(ソプラノ)
神よ、いつまで、ああ、いつまでなのでしょうか?
悲しみはあまりに多く、
私には行き先が見えません、
苦しみと心労の行き先が!
あなたの甘美な恵みのまなざしは
夜と雲のもとに隠れてしまいました。
愛の御手は、ああ、すっかり引っ込められています。
慰めが、私にはひどい不安の種。
私が見いだすのは、みじめな私を 日々苦しめるものばかり。
涙の秤はいつも一杯に注がれ
喜びの酒は濁ってしまいました。
私から、ほとんどあらゆる避けどころが 失われてゆきます。

2-アリア(アルト・テノール)上記参考

3-レチタティーヴォ(バス)
だから、おお魂よ、満ち足りてあれ!
お前の目に映るのが
最愛の友である方が
お前から別れてゆく姿だとしても。
たとえあの方がひとしきりお前から離れても、
心よ、固く信じるがいい、
それはささいな出来事なのだ。
なぜならあの方は苦い涙と引き替えに、
慰めと喜びの酒を与え、
蜂蜜を、苦ヨモギに代えてくださるのだから。
ああ!思うな、
あの方が本気でお前を悩ませると。
あの方は苦しみを通じてお前の愛を 吟味しているだけだ。
あの方はあえて、お前の心を憂いの折々に泣かせ、そうして恵みの光が
お前にますます美しく輝くようにして下さるのだ。
あの方は、お前を楽しませるものを
最後に
お前を慰めるために、とっておかれるのだ。
だからあの方をただ、おお心よ、すべてに支配させなさい。

4-アリア(ソプラノ)
投げよ、私の心、身を投げよ、
至高者の愛のかいなへ。
そうすれば、あの方はお前を憐れみ、
お前の心労のくびきを、
そしてお前をこれまで圧迫してきたものを
恵みの肩に担ってくださるのだ。

5-コラール合唱
たとえあの方が望まないようにみえたとしても、
驚きうろたえるな。
なぜなら、ともにいます最上の時に
あの方は意図を明かそうとはされないからだ。
御言葉を自分により確かなものとせよ、
お前の心がただ否と語っても、
恐れることのないように。


BWV155"Mein Gott, wie lang, ach lange?"
演奏:J.S. Bach Foundation (Youtube動画を拝借させていただきました)