こんにちは。
コロナウィルスの影響により、私は仕事に行く機会が減っています。
そんな中、今までなかなかやれなかった繕い物や、お菓子作りなどにも励み、畑やハーブの手入れなどに勤しんでいます。収穫したハーブ類は、今がいい香りの時期を迎え始めています。摘みたてのレモンバームとマジョラムをフレッシュハーブティーにしたら、あまりにもいい香りで、とても嬉しくなってしまいました。
さて、このように豊かな時間を過ごさせていただく中、最近気づいたことを書こうと思います。
「モットさん(夢)をやめること」
理由は・・・。
このコロナウィルスの件から、いろいろな活動を自粛しなければならないことになり、家での活動が多くなっているため、私のように「今までやれなかったこと」をやる人もいたり、それをやることによって「大切ななにか」を思い出す人もいたり、また、家族との時間が増えて喜ぶ人もいたり、逆に「自分と向き合う時間が増えた」ことにより、内的な葛藤が増えたりしていることもあるようです。実際、世の中の経済活動が、かなり抑えられていることにより、「モットさん(夢、幻想)」を今こそ、見直す時であるように思ったからです。
実は、これについては、いろいろなテーマがあります。
今回は、最近の自分の行動から見えてきた「モット止め」のことを書こうと思います。
(実は、この話題、以前にもブログにしたことがあります)
それが、どうやら虫歯や歯根の膿などとなって、体に悪影響を及ぼしている様子だからです。
🌿見えない敵は、自分です・・・「もっと愛されたい、甘えたい、もっと特別な自分を愛したい」
お砂糖についてですが、最近控えるようにし始めました。
実は、ひどい虫歯や歯の根っこに膿がたまったことなどが、昨年末から続いているためです。
今に始まったことではなく、ずいぶん前から、甘いものを沢山食べる傾向がありました。
そのことが、直接的な原因にはなっているかもしれませんが、その「根底にある原因である取りがちなパターン」などに気づくことが重要ではないかと思い、いい加減辛くなっていたので、自己流で「チャネリング対話」をしてみました。
参考になったので、ここでお伝えしようと思います。
「チャネル内容-歯の治療について」
あ:こんにちは天使さん。私はこれ以上、歯を悪くしたくありません。
そこで相談です。インプラント治療は、お金が高いことと、もうやりたくない気持ちもあります。
また、虫歯もこれ以上増やしたくありません。
歯が生えてくるなどがあればいいなぁと思いますが・・・(しかし、私の頭の中では、こんなことは突拍子もないことかも、と、恐れてしまっている)どうしたらいいのでしょうか?
天:頭で「飯炊き女嫌だ」と言っています。以前から不満が溜まると、甘いものを食べていたようですね。
真理から言えば、あなた自身が生命そのもので、愛そのものであるとわかれば、歯が良くなってきたり、進行が遅くなったり、もしかすると、歯が生まれ変わるかもしれません。
ただし、きちんと「理解」をしていくことに限ります。
歯が何で悪くなっているか、その「行動」やその根っこにある「信念」を観察して見つけて、それを取り除いていくことになることが、本当の意味での治療になるでしょう。
だから、「生命そのものになれない理由」をみつけて、捨てていく、統合していく、赦していく、などです。
歯の悪化の進行を遅らせることは可能ですから、やってみることは無駄でもなく、それから、突拍子もない非現実的なことでもありません。あなたが思っていたのは、思い込みですよ。
また、あなたが気をつけている、現実的な行動としての、こまめな歯磨きや甘いものを控えることなどは、いいことだと思います。
ついでに言えば、甘いものを食べたくなる時の、根本原因を一つずつ突き止めて、捨てて行ければいいのだろうと思います。あなたが「過去の価値観」で「善」としていたことが、機能不全になっている・・・それこそ、「膿んでいる」ということが、歯に投影されているのではないでしょうか。
さぁ、今日から、今から、虫歯の進行を含めて、その2本の膿の進行を遅らせるか、なくしていきましょう。奇跡は起こることもありうる、その可能性にかけてもいいかもしれません。
あ:天使さん。ありがとうございました。一個ずつなくしていきます。地道な作業だったのですね。私はやはり、一挙にやりたくなったり、解決できないと、嫌になってしまう癖があるようです。早くなんとかしなきゃ「虫歯が進行して駄目になる」という恐れは、思い込みで、それに飲まれず、むしろ、遅らせることができる自分を信頼して、理解をしていけばいいのですね。やってみます。トライしても損にはなりませんね、むしろ、軽症で済むかもしれないですね。それに、進行を遅らせることができるのなら、とてもいいことだと思います!
チャネルは以上でした〜・〜・〜・〜
🌿歯のトラブル、本を参考に、どのような意識が原因となっているのかを探る
さて、自分で自分で擦り付けたパターン、そしてその価値観を探ってみました。
リズ・ブルボーの『自分を愛して!』という本を読んで、以下のとおり、重要そうなところを抜粋してみました。
p.228の「歯のトラブル」
・肉体的なレベル - 「自分の『本質』でなくて『見かけ』に基づいて生きている人ではないでしょうか。」
・感情的なレベル - 上部左側の8本の歯は、その人が内部にもっている世界を表現する事と関わっています。したがって、この部分の歯にトラブルがあるということは、その人が、自分の存在に関わる欲求を実現していない、ということを意味しているのです。
・精神的なレベル - 歯のトラブルが特にあなたに送ってきているメッセージは、特に、「欲求を行動化し、具体化しなさい」ということです。そのためには状況をありのままに見ることが必要です。もし必要なら、他の人に助言してもらっても良いでしょう。他の人を恨むのはもうやめて、自分の欲求を実現することに専念してください。自分の内なる神とふたたびつながってください。そして、自分を守るのです。もし、あなたの歯が摩耗してエナメル質が失われているとしたら、あなたは親しい人たちによって消耗させられている、と言っていいでしょう。
もう一冊の本も参考にしてみました。
イナ・シガール『体が伝える秘密の言葉』のp.258「歯根管(の炎症や感染)」
自滅行為。不安。自分は甘くみられているという思い。毅然とした態度を取ることへの苦手意識。人の考えを鵜呑みにすること。劣等感。自分のある一面を拒絶すること。
また、バシャールの本などを参考にスピリチュアルの先輩が、「甘いものと特別な何かになろうとする事をやめ、自分が自然になってくると要らなくなってくる」というアドバイスをいただきました。
🌿観察したこととの検証と、考察
確かに、「特別な何かになりたい」という願望がありました。
いつも、理想の誰かを掲げて、それに近付こうとしていたりしていました。
そうでなければ、自分を赦せないとも思っていました。
その「理想」というのは、どちらかと言えば、「見かけ」にこだわりがちだったと、最近自覚し始めました。
例えば、「理想の料理人の〇〇さんの料理みたいな料理を作ろう」というような目標を掲げ、それっぽい真似をすることはありました。できなければ、なんだか「自分って駄目かも」と思う感じでした。
しかし、最近、歯を悪くしてから、ようやく「自分が良く噛んで美味しい料理を作ろう」と思うようになりました。
それから、無理をしていたようです、理想通りに合わせようとして・・・もっと綺麗(おしゃれ)に、もっと豊かに、美味しそうに、もっと多く・・・。
最近、ようやく、「品目を少なくしてもいいから、一汁二菜とかで、丁寧に作ろう」と、上述のようなもっとさんモードに入りそうになったら、客観視してやめることをし、意識を変える訓練をし始めました。
そうしたら、疲れが減り、力が入りすぎていた料理が少し楽になり、疲れが減りました。
ここまで来るには、自分なりに頑張ったためにできるようになった技術などもありましたが、それより大切なのは、「丁寧に、食材に関わった人たちに感謝をする気持ち」を持ちながら、作ることがやはり、美味しさや、食べた時の満足感の秘訣のようです。
話を、もとに戻しまして・・・「歯」がなぜ今は悪いのか?ということですが、他にも原因となっているようなことがあります。
男性に愛されるようにするために、見かけをいかに綺麗にするかということも、こだわりの一つでした。
今は、これまで、気持ちを駆り立てていたものはもうすでに機能しなくなり始めている、それはつかれる、ということのようです。
このように、本質(中身)よりも、「見かけ」をいかに理想的にコピーできるかということにこだわっていたようでした。もちろん、それも大切ですが、私の場合には、中身より重視してしまう意識の傾向が強いことと、それは、自分が真に望んでいることではない・・・ということを、薄々気づいていたので、スピリチュアルの本を読んで、改めて確認した感じがしました。
私がどういうときに、砂糖が沢山入った甘いものを食べているかと言えば、今までは「自己卑下」する時でした。現状に対する自分に対してや、理想から漏れた自分が嫌で、怒っていたのです。
また、先輩からは、「理想化された狭い枠での自分だけしか認めない・許さない」ということを指摘されてはいましたが、なかなか受け入れるまでは時間がかかりました。
そのため甘いものは、自分自身の卑下や、自分の攻撃に耐えられなくなって、怒りや悲しみを癒そうとしてのようでした。上述のように、自分への攻撃とは、他者への嫉妬心から、現状の自分を無視して、「憧れのあの人みたいにならなきゃ」と思ってつけた「極端な価値観」と、その基準を満たさなければ、自分を攻撃する、ということです。その背景には、「特別な自分にならなければ、愛せない」という、強迫観念もありました。
また「(友人たちと比べて)自分は役に立っていない」という、「無価値感」からも来ていて、無価値に感じることが嫌で、なんとなく癒やされる感じもしていて「甘い物」を食べてもいました。
「どうせ私なんて!」という自己卑下や、自己否定。嫉妬心。怒り、悲しみなどのエネルギーも加わっていました。それにより、せっかく取り組んでいた物事を諦めたり、自分を低く置いてふてくされて、逃げたり。
また、「自己卑下系、自己否定系」想念が耳のそばで聞こえてきて疲れてしまうので、甘いものを沢山食べることによって癒やされる・・・という繰り返し。(統合失調症の症状で言う、幻聴に当たるかと思います)
実は、その「癒やし行為」でさえも、錯覚であり、実は「攻撃」だったのですが・・・つまり、甘い物の過剰摂取は「自虐行為」ですね。
それから、前から、私は「彼氏に気に入られるようになろう」としてしまう傾向が強くありました。彼氏でなくても、人の目を気にして動く傾向があります。これは今でもまだまだあります。
それにより、消耗しているのがわかっています。消耗すると、甘いものを食べることもあります。
(スピリチュアルの本では、周囲に消耗させられている、とありますが、どちらかと言えば、自分の中にある原因に引っかかって相手がその役をやっている、というだけだと思います)
また、前の彼氏が自分をかわいがってくれていたパターンを、今もなお、相手が変わっても、同じように愛情を求めたがる傾向があることがわかってきました。
「小さく、か弱い、可愛らしい雰囲気にすれば愛される」
とか、考えていたものです。(実際の私の見かけって、それとは違いますが、傾向としてやりたがる)
今の恋愛の中で、過去を再現して、満足を得よう、癒やされようとするのです。
そして、そのような役割の自分が「価値がある」と考えていましたし、そうすることで相手の気を引き止められる・・・「なんだか可愛そうだし、頼りなさそうだから、一緒にいてあげなきゃ」
そう思われることにより、関係が維持されているという部分が、多くありました。
それから、なんとなく力の有りそうな男性に愛される(ようにする)ことにより、自分の株をあげようなんていう、ちゃっかりしたしたたかな考えもありました。苦笑
それだけ、自分に自信がない・・・中身に自信がなかったということにも気づくのが怖かったのを覚えています。
今では、様々な角度から、このような癖を卒業しようとトライしていますが、やはり以前の傾向は残っているので、同じように愛情を得られなければ、代替として甘いものを食べることもあります。
いずれにせよ、エゴは、もっともっとと求めてしまうことに同意しがちなのですね・・・(^^ゞ
上記のように、いろいろと本質ではないものに価値を置くというのは、「自己卑下、自己否定」=「エゴ」だから、心がスピリチュアルを学ぶことによって成長してきていることと、歯に悪影響が出てきているので、これらの意識から、卒業に向かうときだなと思っています。
そして、たまに私自身の本質を忘れて、上述のドラマに引きずられそうな時は、
「私の本質は、(上述のような、)可愛らしい自分であれば価値がある、頼りないので相手が必要であるという、価値観とは違い、私は愛そのものであり、自分が自分につけたイメージ(見せかけ)ではなく、私は相手を基準にした自分が自分ではなく、父(神)のもとに愛されている神の子である」
と言い聞かせています。
このような、新しい価値観を自分に刷り込み、知識としてでも土台を変えはじめたことは、憑き物となっている習慣化されたエゴの鋳型が剥がれる瞬間になります。体も心も一瞬で軽くなります。
まだまだ、実践(現実の中)としては、浅いところはありますが、それでも、玉ねぎの皮の一番外側が剥けるように、一番小さい部分・・・一番はじめの熱愛だった時代から引きつづいてきたものが剥がれてきた感じです。
それから、「自分は完全性を体現する旅の相手」として相手を見なすように刷り込んでいます。頼りない私として、相手を必要とするドラマは、自分が弱いとか、自分は相手なしでは駄目という幻想を信じてしまっているわけですから、剥がしながら行く必要があります。
「お互い完全性を体現する旅の友、もしくは、神の子」として、見なしていないときに気づくようにして、それを見つけたら、想念を流して、意識を戻すために、お互いの完全性を体現する旅をしている、と言い聞かせています。もっと良いやり方があったり、より噛み砕いた何かの言い方があるかもしれませんが、とりあえず、まずは「エゴを認識すること」ができて、自分の旅の方向性をチョコチョコ方向修正できることが大切に思っています。
人の考えを鵜呑みにする癖もありますし、自分を甘くみられているという思い、実は悩んでいました。
人の考えを鵜呑みにするパターンはいろいろありますが、自信がないため、そうしてしまいがちです。
甘くみられているという思い、というより、「重要視されていないかも(特別視されてないかも)」というのが、嫌だったこともありました。今でもまだあります。
まとめると、「自分の考えには価値がない」と思ってしまうと、他者の考えを優先してしまい、自分の感じ、考えたことを「大したことない」と思っていたりもします。それも、自己卑下です。
ところが、「自分が重要視されていない感じがして嫌がる」という、思いもありました。自分が認められていると思えば、自分のことを「絶対視」してしまい、自分の考えをおしつけてしまっていたこともありました。
最近、ようやく、物理的には、甘いものを食べる量を減らしたり、甘さ控えめのおやつを作ったり、代替甘味料の入ったものを節度をもって食べるようにしています。ひどい虫歯などを見て以来、お砂糖の過剰な摂取を止められるようになってきました。(遅いと言えば遅いのですが・・・(^^;)
お砂糖を食べたいという思いに逆らって、食べなかった時、「よし、偉いぞ」と、小さなステップを踏んでいる、自分を褒めることができるようになり始めました。
また、砂糖を食べたくなるような、イライラするときなども、「感謝瞑想」や、「想念観察」、真理を思い出す、などをして、少しずつ頑張ってます。そういう自分も、小さなステップですが、喜んであげるようにしています。
以前は「自分の現状の立ち位置から少しでも、上に上がったこと、進歩したこと」、つまり、「小さな成果」を褒めたり、認めることがなかなかできていなかったので、そういう「器」ができてきたことは、自分の中の子供が成長しているんだなぁと思って、もっと喜んであげようと思います。
私の中の子供が「外から愛を求める」回数が減って、自分で自分に真の愛情を注ぎ、力をつけ、自立しようとしているからです。
だんだん、本当の自分・・・等身大の自分を受け入れつつ、成長していこうとするのは、見かけだけの自分を生きようとするところから離れて、本質的な成長に焦点を当てていることも、内なる神とふたたび繋がっていることだと思います。
「もっと何か特別なものになろう」などの・・・「不足感がある」という幻想で自分を駆り立てるのではなく、「心地よい自分」という姿が今はいいのだろうと思うので、そこを目指して行こうと思います。
それでは、今日もお立ち寄りくださり、誠にありがとうございました。
なにか、参考になったことがあれば、幸いに思います。
※ブログアップしてから、少しだけ加筆いたしました。