「愛されたい」は「(内なる)神の冒涜」-私たちは既に愛されている(イエス様との対話) | The trumpet shall sound!~魂の目覚めの福音をお届けします~

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愛と感謝にあふれた「内なる神」を生きようと出た、意識の統合の旅。想念観察をコンパスに、道中で得た『叡智』を分かちあっています。

まこんにちは。
4,5月は、私の住む地域では遅い春となります。一年で一番季候のよいシーズンなので、畑仕事や庭仕事、梅雨に入る前の準備にとても忙しくなります。たまに春の花から新緑を楽しむお出かけをすることもあります。



また、都会に行く機会も何回かありました。そのため、忙しさに加えて、人に多く会っていたことや、普段は行かない場所に行くことにより、疲れることが多くありました。

ある日、出かける機会があったのですが、その前に胃(エーテル体のあたり)が痛くなりました。帰宅する頃には猛烈に眠くなり、また、1時間もその場にいなかったのに猛烈に消耗しました。
帰宅して、ボーッとしていると・・・

「自分のことも統合できない(救えない)のに、他者や地球のことや環境のことなどを救えるわけない」

というのが聞こえてきました。
「ちょっと、すごい内容だけど・・・」とは思いましたが、「自分のことを自分で救えるようになること」というのは真理です。
その後、ノートでもう少し詳しくチャネルしてみようとしたら、たまたまパカッと開いたページに、過去のイエスさまとのチャネルがあり、その答えのようなものが書いてありました。それを書き下ろし、それを踏まえた上で、再度対話を試みました。

さて、この記事では、私自身が、今のテーマとして、何を統合しようとしているのか。意外と盲点になりそうな「愛されたい意識」について、真理と照合しつつ、イエス様と迫りたいと思います。

どうぞお楽しみ下さい。

🌿天は自ら助くる者を助く:外から愛されよう、その証として獲得しようは卒業
(24年1月18日のイエス・キリストさまとの対話、私が「いいね」「フォロワー」機能を外すか悩んでいた時の対話)

 

あ→あおい イ→イエス・キリストさま


あ:イエス・キリスト様、メッセージをお願いいたします。
 
  現代では、記事を書いていてメッセージを伝えるのに、面倒くさいことがいろいろあります。
  それは、ブログの「フォロー機能」とか、「いいね」という承認機能などのことです。

  最近、これがらみで、色々面倒なことがあり、辞めたくなる気持ちになっています。


  今まで、それを必要としている自分もいました。承認してもらいたい時代もありましたし。

  真面目に読んでくださって「いいね」や「フォロー」してくださっていた方もいます。私も時に繋がりの中から参考になることも色々教えていただけました。だから、その「機能」を使えたことでできたことに感謝の気持ちもあります。

  でも今は、自分でチャネルしながら学べるようになり始めたり、自分自身の気づきで進めるようになりはじめたし、先輩のサポートもあるので、「機能」に期待することは、自分のブログサイトにおいては必要を感じなくなってきました。

  そんな時、面倒なことがありまして、そのような機能を卒業したいんだけど、どうかな、と、迷っています。


  それらの「機能」を外すことをイメージしてみると、私の左半身の辛さが、少し楽になるような気がします・・・左側から吸われるエネルギー枯渇が最近酷いのですが、関係するのでしょうか?それを防ぐためには、機能をやめた方が良いでしょうか?

イ:本当に必要があれば、求めていれば、記事の内容はきちんと相手に届く。そのような機能に頼る必要はない。
  それはわかっているはずだ。
  本当に求めていれば、なぜか手許に届くようになっていることは、あなたも実感済みだ。

  だから、わざわざ現代の「エゴ」に合わせたシステムを利用しなくても良いのだ。
  そもそも、以前(私の時代に)はそんなものすら無かった。

  ・・・「より大きく、より広く発信したい」の背景にある意識は何か?

あ:「お金が、収入が、繋がりが・・・少なくなってしまえば、ダメになるかも」という思い込み(方程式)でしょうか?
  それ自体を信じることが、物質主義というか、物質やそれにまつわる損得、利害を信じてしまって、余分なことを増やした
、ということで・・・?

イ:そこで「ムダをした」「回り道や損をした」と考えているのなら、それは間違いだ。
  きちんと、闇(囚われ)を知り、学ばせてもらえたことに感謝して卒業するだけだ。

  現代のシステムに余分なものが多いのは、それだけエゴが複雑になってしまっているからだ。
  しかしそれは、生命の危険を直に感じない時代の学びだ。

あ:そうですね。ありがとうございます。

イ:しかし、そのような、便利な機能に頼らないでも大丈夫、と、感じたことは、大きな成長だろう。
  あとは、自分で歩んでいくだけだ。
  「天は自らを助くるものを助く」・・・
  外に目を向けず、もっと自分自身の学び、自分の内的な学びに注目しなさい。
  「外から愛されよう、その証として獲得しよう」とする時期は終わりだ。


  それがうまく回らず、かえって分離を招くと感じるなら、あなたにはもう、そのやり方が合わなくなってきて、卒業する時が来た、ということだ。

あ:エネルギーが枯渇し、スタミナがすぐに無くなるのは、なぜですか?

イ:エゴに耳を傾けているからだ。

あ:しかし、エゴに傾いてしまう、正確に言えば自分の中の濃いエゴに傾いてしまうのは、仕方がないのでは・・・?

イ:先ほども伝えた。
  「自分を救う」ことしかできないのだ。
  本当の意味で、他者を救うことはできない。
  他者を救いたいのではなく、本音は「自分のエゴを救いたい」ということだ。

  しかし、真に自分を救うためには、外に求めているもの(エゴを満たそう、幻想を満たそう、という意識)に辛抱強く気付いて離れていく必要があることは、知っているだろう?

あ:わかりました、ありがとうございました。

 


🌿「愛されたい」は、神の冒涜(イエス様と5月の対話)

あ:イエスさま、上述のような対話を前にしたことがありました。
  それを踏まえた上で、また対話をお願いしたいと思います。
 
  また、今日も疲れてしまいました・・・昨日丸一日、来客の相手をして出かけたりしていたこともあるのでしょうが・・・それにしても、このままでは、今後、人を相手にした仕事をするのが厳しくなってしまいます。

  出かけてはその先々で、想念の「ゴミ」を食らったのだろうとは思いますし、実際そうだと特定できることもありました。

  それでも、その人達をどうこうできるわけでもなければ、被害者意識に陥ることも違いますし、もうそのような段階では無いことは承知しています。
  「疲れてしまう」ことはあっても、とりあえずは回復を早めることができれば、と思っています。


  人と会っている時、日中眠くなってしまうことも多く、コーヒーを飲むこともしばしばありましたが、どうも「カフェイン」の効果は関係ないようにも感じています。
  目まいもすることもありますし、ここひと月ほど、胃が痛くなることがありました。でも、自分の胃が直接シクシクするのではなく、エーテル体がそんな感じでした。
  このままでは、本当に仕事に就くこともできず、人相手の仕事も無理なのではないかと思っています。
 

  私の症状について、何が起こっているのか、それから、何をどうすればよいのか、今後どうなっていくのか、いろいろ見えないところを、見えているイエス様からいろいろご指摘を頂ければ幸いです。

  よろしくお願いいたします。
  聞いたからといって、すぐに実行できるとは限りませんが、対話をしていただけると助かります。


イ:聞き届けた。
  「疲れた」のは、「(取り)憑かれた」のではないか、というのなら、確かにそうだ。
  周りの人達の多くは、「囚われていること」に「疲れて」いる。
  しかし、そのことについて「為す術がない」と思い込んでいるか、憂さ晴らしやごまかしが、「疲れを取る」ことにつながると思い込んでいる。


あ:そうですね。それは、なんとなくそう受け取っています。
  また、今日なのですが、あるスピリチュアル界の人が主催する場から帰宅すると、「自分を救えない者に、他者や地球や環境などを救うことができない」ということが入ってきました。
  私のことでもあると思うので真摯に受け止めたのですが・・・でも、今日出会ったスピリチュアル界の人や、最近夢に出てきた知人のことが、まず思い浮かびました。

  みんな「風の時代の到来だ!」と言って一見自由に活動していますが、実は「意識の統合」をしているわけではなさそうな・・・感じもしていました。
  でも、私は表面だけ見て、「私もあの人達のように、もっと前に出た方がいいのかな」と思っていました。
  そのことを今、振り返ると、急にまた胃が痛くなってきました。
  それ、やめた方がいい、ということですね。

イ:前に対話した文を開いたのは、私からのメッセージだった。
  前にすでに答えが出ている部分がある。
  表に出て活躍している人達の、表面の行動と、それを支えている意識(本音)の差額を、あなたは食らっていたかもしれない。
 
  あなたは、親しい人に会うとき「わーい」と喜んでしまい、相手の「表面的な良いところ(行動力、発信力など)」しか見えなくなってしまう癖がまだ残っている。相手は、自身の心の奥にある何らかの闇の反動で、そのような表面的行動・状態を保っていることもある。
 
あ:ひと月前から、ある特定の人に意識を向けると、胃が痛くなることがありました。みぞおちから何かすごい力で「グッ」と掴まれるかのような痛みでした。
  私は、いろいろな観察経験から、その症状が意味するところは「自分の意志、自我(を通すため、自我の目標/計画を達成するため)」で「コントロールをして」やり切ろうという意識を前面に(中心に)出している人達の「念」ではないかと思いました。

  会った後に「胃が痛くなる」人達のことを見ていると、「コントロール」が他の人達より働いているのではないか、と思いました。特に、「お金関係」「知名度(有名になりたい)」という点で、表向きはそう見えないけど、実は「ガツガツ」しているのではないかと思える人が多いような。

イ:何かを先急いでいるのかもしれないね、その人達は。

あ:そうですね、そう見えます。確かに、その人達に会うと、私自身が「自己卑下」気味で、「私は何か活動が足りないのかな、もっといろいろ動かなきゃいけないかな」という気になります。
 
イ:その「胃が痛くなる」人達は、あなたが言うように「自我の目標/計画」を前面に出し、コントロールしてやり切ろうとしているのだとしたら、実は「お金や現世的なものに不安がある」のではないかね?

あ:しかし、どの人達も「お金・スキル・経歴(経験)が豊か」であるように見えます。自信を持っているように見えます。私などは、その正反対のところにいます。

イ:前に私が言った、「壊れた<神の神殿>を私なら、3日で再建できる」という話しを覚えているかい?

あ:えっ、ええ。『新約聖書』にあるお話しですね(「ヨハネの福音書 2:13-22」)。読んで驚きました。
 普通に建設し直すなら、46年掛るところを、たったの3日です!
 驚異的ですが、それこそが、「宇宙の父との信頼関係の力」なのですね。
 つまり、「神の子」を血肉にすることが出来れば、それが可能
なのですよね?

イ:そうだ。
 だとすると、先ほどの一見「持てる」人達は、何をしようとしているのだろうか?

あ:「神の子」として、宇宙の父の子として生きようとする・・・というよりは、「自我」の方に重きを置いて、生きようとしているのかもしれません。

  そうだと考えたら、「お金」「知名度」というのは「神の子」としての「自己信頼」が薄い分、必要だと考えている穴埋め、なのではないかと思います。

  先日、ある人に会ったとき、「お金や、学歴・職歴」に対する不安が私の中で感じられました。

  その時初めて、「おやっ、私は真理の学びをしているが、その視点からするとお金や学歴や職歴の不足は、今の私にとっては幻想だ、だから、これは他者の念だ」として見破ることができたことがありました。やっと切り離して「認識」できるようになりました。

イ:その者達は、「捨てられないもの」があるはずだ。あなたよりも。

あ:えっ?そうなんですか?

 (あおい、ここで、『新約聖書』の「山上の垂訓」の冒頭にある「貧しい者は幸いだ」を思い出す。

  そうかもしれません! 私は、確かに、その人達よりも、持っていない・・・。
 
  それとも、今、思い出したのですが、私自身がその人たちに「愛されよう」としているのでしょうか?

  おやっ?! 実は、その人たちも「愛されよう」としているところがあって、それに共振してしまったのでしょうか?
  愛してください、だって、私はこんなに素敵なんだから、と言う無自覚の念に・・・。

イ:本当に愛されるべき相手は、誰だろうか?

あ:宇宙の父です。創造です。なぜなら、宇宙の父を愛することは、私たちが「神の子」であることを思い出すことだからです。
  すべては、「宇宙の父の喜びのためにやりなさい」と言われています。

 

  その言葉をなかなか思い出せませんが・・・実はそのあたりの理解が、私は弱いために、自我・・・「愛されたい」を主軸に置いてしまうことがまだあるために、念を食らってしまうのでしょうか?
 
イ:「思い出す」とあなたも言っているように、元々あなた方は「愛そのもの」として創造された。外に求める必要はないのに、「自分には愛が無い、足りない」と感じているのがエゴだ。
  外に愛を求めるかゆえに、「愛されたい」がために、相手のエゴに共感し、相手のエゴに同情、あるいは「満たしてあげなければ」と思い、行動してしまうことで重くなる。
  相手のエゴに隷属・・・時には盲従してしまうことで、さらに状況はひどくなる。
  神の子としてではなく、エゴ・・・肉体意識の同調(同情)、というレベルで停滞している。

 
  あなたは、目覚めてきてはいるが、習慣的に従う癖が止められないでいる。

あ:うっ・・・そうなんです・・・つい、心地よくて・・・。

  しかし、自分で気づきつつあります。
  「愛されたい」ためにやっていることって、結局その「結果を求めている」ので、結果が帰ってこなければ、それだけ「不足感」という幻想を感じてしまう・・・それで、また相手に求める、という繰り返しですからね。
 
  私は、もう、「相手に愛されよう」という意識、相手に求める気持ちはだいぶ減ってはきています。

  でも、労使関係においては、たぶん「愛されよう」が働くと思います、今でも。

  「愛されなくなること」を恐れている部分が残っていますね。特に、お金がらみで、それが「生活を苦しめる=生命の危機」と無意識的に感じているようで。

  それが錯覚だとは気づいています。

イ:それが、「人間のエゴの作り出す錯覚」だとは気づいているならまだいい。
  気づいていなければ、「肉体を主である」と思っていることと同じだからね。

  宇宙の父の目を気にする(神/創造/宇宙の父に特別な愛を受けよう、評価されようと意識する)のではなく、「宇宙の喜びを体現することが、愛である」というところに、意識をおく方がよいのだ。

  ・・・「神の言葉」は、あなたたち人間のためだ。
  それは、神が「神にしよう」とか「崇高な者にしよう」とか「取り立てて何かにしよう」とか、そういう意図ではない。
  単に、人間が、幸せに心地よく平和に、生きられるように、と、言葉を残している。
  私は、それを、父の代理として伝えているだけだ。


あ:この対話では、自分からの視点では見えないところから、お話ししていただけるので、有り難いです。

  ところで、私の話に戻りますが、
  「宇宙の愛を体現することこそが愛」とか「宇宙の父の喜びのため」とは、なかなか意識できません。
  ついつい、「愛されよう」としてしまいます。


イ:実は、相手が放ってきている念の影響でもあるのではないか。
  相手が、「愛してくれ」という「観念」を強く持っていると、あなたが「その役」をやることがある。
  それで、相手が望むとおりに、エネルギー、金、など、自覚無くホイホイ提供してしまう、ということもあろう。


あ:それは、「自我の計画(自我の思うつぼ)」にまんまとハマっている、ということですね・・・アハハ。汗
  それこそコントロール・・・愛されるために自分を、他者をコントロールしている、ということですね。これこそ、「思惑」じゃないですか?!
  下心、見え見えなのですね。


イ:そんな娼婦のようなことはしなくていい。
  「愛されなきゃ食いっぱぐれる」というのは、過去世での思い込みからもしれないが、そろそろ手放していく時期がやって来たのだろう。

あ:そうですね。他の部分が、だいぶ足元が固まってきたので、「愛されたい仮面」も要らなくなってきたと思います。
  でも、私は「提供して」いるつもりはありませんでした。

イ:それは問題だ。自覚だけはもっとした方がいい。

  それだけでも「吸われる」ことは減るし、回避できるときも増えてくるし、相手の不足感・不信感を食らってもすぐに抜けられるだろう。

あ:また、「私なんて、どうせ・・・」という「自己卑下」が、背景で様々な場面で働いることも原因の1つかもしれません。

イ:原因の一つ、というだけではない。「自己卑下」は、最大の「(内なる)神の冒涜」だ!

あ:ひぃぃぃぃぃ!

  そっ、そうです・・・ね。

 

  先輩から言われていたのですが、自覚が足りていないんですね・・・。
  というよりも、「納得」して、「ああそうなんだ」と、落ち込み材料にするなど、感情に流されてしまっているのですね・・・。
  「愛されよう」なんて、本当に、以前の私が「これでなきゃならない」と思っていたものだから、そろそろ真剣に取り組んで捨てなきゃ。
  ・・・そんな意識だから吸われてしまうんですね、精気を。

イ:精気だけでは無く、お金もそうだ。エネルギーになるものを、差し出してしまうのだ。

あ:エネルギーを取り戻すことに苦労し特別に長く瞑想をする時間や、ヒーリングを受けたりもするから、お金も時間も掛ることを考えれば・・・、そういう、打算で考えることではありませんが・・・。
  「自己卑下」は、そういう意味では、安住してしまってはいけないエゴ、捨てていくべきエゴ、と、もっと自覚します。

  自己卑下をすることに、心地よさを感じている部分も無くはなかった・・・。

イ:それは、あなたの「悲劇のヒロイン」志向の名残だ。また、あなたが「韓国ドラマ」パターンと呼んでいる、アップダウンの激しいドラマを好む性質が、まだ残っている部分がある。
  そんなものに価値を置いていること自体も、本当は「神の冒涜」なんだがね、もちろん、今のあなたの学びのステージにおいてはだ。

あ:はっ、はい・・・。(急に襟を正すあおい)

  では、「愛されよう」という思いに囚われそうになるとき、相手の念に応対していることもある、ということを思い出して、離れて観察していればいいのですね。
  別に、愛されようとしなくていい、というわけか。
  というか、「あなたに愛されたい」と、しなくていいのか。

イ:まだ、そのあたりがわかっていないようだね。
  まず、まだ自分が「愛されたい」想念を放っている、と思い込んでいる。
  それは、錯覚だと気づいているのだが、相手の意識世界に取り込まれると、すっかり忘れてしまうのだ。

 
  その時、相手の「自分の真実を見たくない」という思いを「眠気」として食らってしまうのだよ。
  
相手は、無意識の上で、「防御」している部分には気づいていないだろう。


  また、「(素敵な、憧れちゃうような)○○さんみたいになろう」という時も、意識の置き所が違っているのは説明するまでもないだろう。
  

  いろいろとブレているところに気づけない。

 もっと、私の言葉を読みなさい。
 それで、自分のブレにもっと気づいて、自分の正気を取り戻すことが必要だ。


あ:それには、まだ気づいていませんでした。
 コントロールしていたんですね、それも。気づいていなかった・・・もう、無意識的な反応でしたね。

イ:そうやって、自分を凹ませること、不足感を増幅させることを自らやっていることに、もっと気づきなさい。
 自分が好んでやっていることに自覚がないから、なかなか回復しないのだよ。


 すべては、「父の喜びのため」ということであれば、何も特別「自分を愛してもらおう」としなくていいのだ。

 すでに「愛されている」からだ。
 「愛されたい」自体が錯覚。

  

  そうは思わないかね?

あ:そうですね・・・そんなことしなくてもいいわけですね。
 
 では、特別に「自分たちももっと前に出よう」としなくてもいいというか・・・「愛されようとして宣伝活動」をしなくていいということなのでしょうか?

イ:お金の不安や、自分が愛されているかといった不安、そんなものは、何ら関係ない。
  ただ、「神の子」として、タイミングが来たことをやればいいだけだ。

  

  活動が回らなくなるときは、それは、何かが間違えているか、終わるときだろう。
  まだ始まってもいないものなら、終わることはない。
  しかし、「エゴ(自我)」は、始まるとき(新しいテーマの浮上)には、何かが終わる(古いテーマの卒業)のだ。
  あなたの場合、「愛されたい」が終わり、「愛(そのもの)である」の始まりではないだろうか?


あ:そうですか! そうですね・・・。
 
 自分が宣言していること、伝えてもらったこと、と実践できていることとの間には、差額があります。
 それを理解した上で、自分が日々の活動の中で「愛されたい」をもう卒業して、「愛である」を、体現していく時期なのですね。

イ:その衣替えが、なかなかスムーズに行かないようだね。子供ちゃんの服・・・「黄色の服」がまだまだ好きなようだ。
  それは、もうボロボロなのだから着替えなさい。
  そんなみすぼらしい服(エゴ)を、いつまでも着用したがる、その意識こそ、神に対する冒涜だ!
  ・・・そんなものより、もっといいものがある、ということを、忘れないように。


あ:うっ、それだけ「神の冒涜」と繰り返し言われると・・・、でも、それだけ言われないとわかっていない・・・そんな私自身も「寝ぼすけ」していたんですね!
  有り難く、そのお言葉、頂戴いたします!
  だから、相手から「眠気」として、重たい「もやもやしたまやかしのすっきりしないエネルギー」を食らってしまうのでしょうね・・・よく見えてきました・・・。


  「そんな窮屈な服をいつまでも大事にしていることはやめます。
 
  そうすれば、私自身に、「活潑発としたエネルギー」が「宇宙」から滞りなく注がれてきて、やるべきいろいろなことに着手できるようになるのでしょうか。
 
イ:そうだ。
  今はまだ、「あの人のようになろう」とか、「愛されたい」などの「邪念」に翻弄されて、他者との比較や自己卑下にはまることが少なくない。

  競争意識を、無意識的にベースにしているのだ。
  それを止めれば、宇宙の愛の循環ができてくるから、物事がもっと効率良く進むだろう・・・。
  それを、小さな単位で繰り返していくことで次第に、私のように、
神殿を3日で再建できるような力を持てるようになってくるだろう。
  私の力のすべては、あなたにもある。
  私はそう伝えた。


あ:お言葉頂戴いたしました!
  ありがとうございます。
 
  すべては、「宇宙の父の喜びのため」ですね。
  意識の置き所が、違っていたことがわかってきました。
  その、私の古い観念と同じ人達と共鳴して、波動を下げ、胃が痛くなったり、疲れてしまっていたことがわかりました。
  この会話を、ブログの記事として分かち合います。
  ありがとうございました。

  実践するのは、まだまだ難しいところがありますが・・・一歩ずつやれるところはやります!

🌿最後に

長くなりましたが、参考になったことがあれば、幸いに存じます。
私自身も、これをチャネル(対話)させていただくということは、まだまだ、血肉になっていないのです。それを忘れてしまうと、つい、自分に対してケチを付けてしまうという癖があります。それは、いい加減、今の私の学びのステージにおいては、卒業すべき子供じみた反応だなぁ・・・とは思いますが・・・。もっと、淡々と学べるようになれるよう、日々の生活の中で訓練を怠らないようにしたいと思いました。


今回の話題に加筆したいことですが・・・。

人は学びの道により、自然と価値観が変わってきます。合わせようとすると、コントロールになり疲れが酷く出ることも見えました。無理に相手をなんとかしようとしなくていいと思いました。


こちらが、学びを進めて、キチンと光を放っていることが、周り回って相手にも良い感じはします。


そう言うこともあり、暫くはなるべく、ひとりで静かにしている時を大切にしていいかな、と思いました。自分のこれからのために色々整理しようと思いました。


また、ゴールデンウィークを終えてからは、私は現社会を動かしているコントロール意識、パワー思考や競争原理というものから、もう離れたい、私はもうそこに参加していたくない、と、本当に思い始めました。疲れたし、ほどほどに行きたい、と言う感じで、学習を進めています。

できれば、それを整理してまた記事にしたいと思います。


それでは、今日の記事はここまでです。

何か皆さまの学習に参考になったことがあれば、幸いです。
お立ち寄り下さり、誠にありがとうございました。