フラジャイル~こわれもの:プロローグ
梅雨どきに特有の、まとわりつくような細かい雨が降り続く日曜日。
池袋駅近くにあるMホテルのレストランに入ったのは、午後二時すぎ。
ランチビュッフェの終了間際だった。
ライラは、オードブルを少し小皿にとっただけで、ビールをあおるように飲んだ。
その日はお客様感謝デーで、ドリンクが飲み放題だったのでそうなったのかもしれないが、あきらかに飲み過ぎだった。
いつものライラではなかった。
気がつくとぼくたち以外に客はだれもいなかった。
マネージャーらしい男が迷惑そうな目でこちらを見たが、ライラもぼくもかまわずに飲み続けた。
スタッフがテーブルを片付けはじめた頃、ようやくぼくたちは席を立った。
「酔いをさましていこう」とぼくはライラをロビーのソファに座らせた。
フロントでチェックインした後、ふり返ってみるとライラは酔いつぶれて、柔らかいソファに沈み込むように横たわっていた。
ミニスカートから太股が露わになっているし、キャミソールから乳房がはみ出しそうになっていた。
周囲の目はあきらかに好奇心に満ちていた。
ぼくはライラの背中に手をまわし、「さあ、行こう」と上半身を抱きかかえて立ち上がらせようとした。
そのときライラが突然、「何すんのよ!」と叫んで、ぼくの左頬を思い切り平手打ちした。
パーンという音がロビー全体に響き渡った。
「あなたなんか、大嫌いよ! あっち行って!」
ライラの大声にロビーの全員がふり向いた。
頬の痛さと、まわりから見られているという恥ずかしさ、そしてよもや予想もしなかったできごとに、ぼくの酔いはいっぺんにさめてしまった。
正面に座っていた老夫婦がニヤニヤしながらこちらを見ていた。
女子学生のグループが軽蔑するような目でささやきあっていた。
ヨーロッパ系の若い男女が両手を広げてあきれたような顔をしていた。
フロントマンたちは見て見ぬふりをしていたが彼らの関心は間違いなくぼくとライラに集中していた。
ベルボーイは背中を向けていたが、肩が小刻みに揺れていたのできっと笑っていたにちがいない。
「大嫌い! あっち、行って!」
ライラが二度目に叫んだとき、ぼくはもう我慢ができなかった。
公衆の面前で罵倒され、ぼくの自尊心は泥まみれになった。
これほどの屈辱を受けたのは生まれてはじめてだった。
ぼくはライラをにらみつけた。
ライラはぼくの顔を見ようともせず、もう一度叫んだ。
「あっち、行け!」
ぼくはもう完全にキレてしまった。
ライラをその場に残して、ぼくはホテルを出た。
それがライラとの別れだった。
それ以来、ぼくの内部で何かが変わった。
夏の終わりには会社をやめた。