フラジャイル~こわれもの(12)
ぼくは窓をぴしゃりと閉めて小走りに玄関に向かい、ぞうりをひっかけて、勢いよく門から飛び出した。
黒山さんちの門から入ろうとしたとき、「兵庫さん」という声がきこえた。
ふり向くと、真知子さんが立っていた。
左斜め向かいの若奥さん、弓田真知子さんだ。
真知子さんは、まばたきひとつせずにぼくを見た。
ぼくも視線をそらさずに真知子さんの目を見た。
次第に真知子さんの頬が紅潮していき、それが伝染してぼくも赤面した。
真知子さんはモジモジしだした。
実は大川さんちのおばさんが世間話のついでにいろいろと話してくれていたので、真知子さんの家庭の事情を少しは知っていた。
まだ結婚一年くらいなのに、この頃はご主人の帰宅が遅く、出張も多くて、夫婦仲はあまりうまくいってないらしい。
真知子さんが赤面したのは、ぼくを男として意識したためなのだろうか。
ご主人に不満な真知子さんがぼくに関心を示したということなのだろうか。
ご主人はいったい何を考えているのだろうか、などと考えているうちに、「ご主人は?」と、ぼくはずいぶんと間の抜けた質問をしてしまった。
真知子さんは恥ずかしそうに、「帰宅するのは、深夜です」と答えた。
世間では今日から仕事はじめだが、ずいぶんと忙しいようだ。
ご主人の帰りが遅いことをぼくに伝えたということは、もしかするとサインなのか。
帰宅するまで時間があるので、それまでぼくといっしょに過ごしたいという意思表示なのだろうか。
これが人妻の誘惑というものなのか。
「あたし、今夜は……」
語尾がはっきりと聞きとれなかった。
真知子さんはうつむいた。
白いミニスカートからすっとのびた黒いストッキングの足がなまめかしい。
ぼくの視線を感じたのか、真知子さんは両足を閉じた。
だめだ、もう自制できそうにない。
ご主人が帰宅するまでかなり時間はある。
これから真知子さんの家に行ってふたりで濃厚な時間を過ごそう。
いや、もしもご主人が早めに帰ってきて鉢合わせになってはまずいから、ぼくの家の方がいいだろう。
ぼくは一歩前に出て真知子さんの手を握ろうとした。
そのときぼくの背中をだれかがたたいた。
「おじさん、何してるの」
ぼくははっとして我に返った。
フラジャイル~こわれもの(11)
ぼくはもう一度、鏡の中の自分をじっくりと観察した。
顔色も健康な人のそれとはほど遠く、血の気もなくて青白い。
白眼の部分がどんよりと濁っているし、眼の周囲にうっすらと隈ができている。
こんな顔なら気味わるがられるのは当たり前かもしれない。
そのとき窓ガラスに小石でも当たったようなコツンという音がした。
だれかのいたずらか。
ぼくは勢いよく窓を開けた。
開け放した窓から、隣りの黒山さんちのブロック塀が間近に見える。
黒山さんちの老夫婦は息子をたよって大阪に引っ越してしまったので、今は誰も住んでいない。
窓から首をつき出すようにしてブロック塀を注視していると、赤いリボンがちらりと見えた。
案の定、子どもの仕業だ。
「だれだ!」
ぼくは大声で叫んだ。
「アッ!」という声がして、赤いリボンは塀の下に隠れた。
数秒後、女の子の顔が塀の上にゆっくりと現れた。
「こんにちわ」
関口さんちのエミちゃんが爽やかな顔で笑っていた。
「こんにちわ。おじさん」
さっき会ったばかりなのに、こんにちわはないだろう。
いくらぼくが不法侵入めいたことをしたからといって、石を投げるなんて失礼にもほどがある。
「何をしてるんだ!」と、ぼくは大声で怒鳴った。
あまりの剣幕に驚いたのか、エミちゃんの顔が塀の向う側でぐらっと傾いた。
落ちそうになったのだろう。
ブロック塀は二メートルくらいだから、きっと台の上に乗っていたにちがいない。
「おどかさないでよ! 危ないじゃない」
エミちゃんは口をとがらせた。
「なんでそんなところにいるんだ、きみは」
「だって、ずっとお留守だもの」
「留守だからって、ひとの家に入り込んでもいいのか」
「あら、おじさんだって、うちに上がり込んでいたじゃない」
確かにそれをいわれると返す言葉がなかった。
ぼくは一瞬、黙りこんでしまったがすぐに、「ひとが泥棒をしたから自分も泥棒してもいいのか」と、今度は先生が生徒を諭すような口調でいった。
「あっ! やっぱりおじさん、罪悪感をもってたんだ」
「罪悪感だって? 何てことをいうんだ、子どものくせに」
まさかそんなことばをきくとは思いもしなかった。
「そのことばの意味はわかってるのか。小学四年生なのに」
「それくらい知ってるわ。だってママがさっき、罪と罰、それから罪悪感について、お話をしてくれたんだもの」
ぼくが帰ったあと、親子で悪口をいいあっていたのだ。
「だからね、あれは罪悪とか、そんなんじゃなくてさ。
ネコを追いかけていったらきみんちの家の中に入っていった。
インターフォンを押したけれども返事がなかった。
ドアのノブを回したらドアに鍵がかかってなかった。
家の奥の方でネコの目が光っているのが見えた。
ぼくはそれにひかれるようにして家の中に入ってしまった、ということ。
つまり、単に偶然が連続した結果なんだ」
とぼくはいっきにまくし立てた。
エミちゃんは首をかしげた。
「あ~あ。おじさん、何いってるのか、エミにはわからない。
でも、ひとの家に勝手に入ったことは事実でしょ?」
「もういいよ。
あれは確かにぼくが悪かったと思っている。
それより、きみ、いったい、そこで何してるんだ」
「わかったよ。ひとまず許してあげる。今、エミは、タマを探してるところなの。
おじさん、タマ、見なかったかしら」
「タマなんて見るわけないだろ。あれからすぐに家に帰って、ぼくはずっと鏡を見てたんだから」
「あら、鏡? ふふふっ。おじさん、女みたい」
この子はぼくをからかおうとしているのか。
女というのは、嫌味なところは子どもも大人も同じだ。
「女じゃなくても、顔を洗ったり、ヒゲを剃ったり、ときには鏡を見なくてはいけないことがあるだろ」
「それは朝起きたときのことでしょ。やっぱり、おじさん、変だわ。ママがいってたとおりね」
親子そろってぼくを変人扱いしていたのだ。
「おじさん、顔が赤くなったよ。大丈夫?」
「うるさい! そこで待ってろ! こらしめてやる!」
フラジャイル~こわれもの(10)
駄洒落のおかげでなんとか解放してもらうことができたが、あやうく犯罪者にされてしまうところだった。
それにしても、リビングで会ったライラはいったい何者だったのだろうか。
転んで頭を打ったのが原因の妄想だったのだろうか。
右側頭部が今も痛い。手で触れると指に血がついた。
ネコに付けてやったのと同じバンドエイドを取り出して、洗面台の鏡を見ながら傷口に貼り付けようとしたが、長い髪がじゃましてうまく貼れなかった。
もう半年近く散髪にも行っていなかった。
ヒゲも伸び放題だ。
6月、ホテルでにライラに侮辱されてからぼくの心の中で何かがガラガラと音を立てて崩れ出した。
ヒゲもそらずに出勤したこともある。
髪も伸び放題だった。
「営業だったらもっときちんとしろ」と、係長に散々嫌味をいわれた。
まわりの女の子たちがハラハラしながら聞いていたのが、今となっては懐かしい思い出だ。
ぼくが会社をやめると宣言したとき、同僚たちは、やっぱりそうだったのかって、妙に納得した顔をしていた。
ぼくのそういう雰囲気を以前から感じていたのだと思う。
おまえの勇気がうらやましいよ、オレも独立してガーンと稼ぎたいよ、なんて酒の席でいうやつもいたけれど、しらじらしい。
競争相手がひとり減って、内心では喜んでいたにちがいない。
目が笑っていたもの。
もしもほんとにぼくの決断をうらやましいと思っていたなら自分もそうすればいいのだ。
後悔先に立たずっていうじゃないか。
年を取ってからでは遅すぎるんだ。
そんな風に言ってやったこともあるが、曖昧な笑いでごまかすばかりだった。
やめる気などこれっぽっちもないのだ。
はっきりいってつまらない連中だった。
メールアドレスを教えてくれといった何人かには教えてやったけれど、その後、誰からもメールは来ない。
まあ、会社の中の人間関係って、所詮、そういうものなのだろう。
入社して知り合った関係は退社するとそこで終わり。
会社を媒介にして成り立っていた人間関係だから、会社を離れれば終わるというのは当然といえば当然のことだ。
終身雇用制が保証されていた少し前の古き良き時代の人たちは、会社イコール自分の人生みたいな風情があって、定年後も同窓会とか開いて集まるくらいで、だからこそ会社人間とも揶揄されたのだが、当人たちにとっては何の疑いもない幸せな人生だったのだろう。
経済成長期に急成長した企業の創業者が社員の墓碑を作ったという記事を読んだことがあるが、会社人間の行き着く先はそういうところなのかもしれない。
その創業者にとっては、墓も持てない核家族化した人たちを救済する善意のつもりだったのかもしれないが、おぞましい発想だ。
会社が未来永劫まで存続するはずはないし、保証もない。
倒産するか他社に吸収されて消滅してしまえば、そこに納骨された魂は無縁仏になって、永遠に荒れ野をさまようことになってしまう。
あまりに殺生じゃないか。
しかし、そんな時代はとうに終わった。
日本経済が強大になり、アメリカを抜いて世界一になるなどと吹聴する人も現れて、調子にのって浮かれているうちに不景気になり、いつ頃からかグローバル化しないと日本はダメになるとマスコミが騒ぎ出し、気がつくと年功序列は崩れていて、終身雇用制は崩壊していた。
まさかと思われた大企業が次々とつぶれ、そして外国資本が乗り込み、経営効率を追求するという大義名分でリストラの嵐が吹きまくった。
藩主に忠誠を誓うサムライのような会社人間たちは、不要どころかむしろ邪魔者扱いだ。
会社人間ということば自体、すでに死語だ。
親父たちの世代で終わってしまった。