去る4月、東京池袋で暴走した乗用車にはねられ母子が死亡した事故で、夫(親)が88歳の運転手の厳罰求める署名活動をした結果、約29万筆の署名が集まったということです。

 

この事件を風化させないため、加害者がしかるべき処分を受けることが、再発防止につながる、高齢者であっても元官僚であっても厳罰を科すべし、被害者の悲しみに寄り添うため等々の意見があります。

 

反面、元官僚だからとか、署名の多さで刑罰を重くしたり軽くしたりすべきではない。

 

法治国家だから民意にも権力にも左右されない公平な裁判が行われべきという意見もあります。

 

署名は915日㈰まで延長になりました。

 

この事件を機に、この世の有り様、人の心の有り様を深く考えさせられます。

 

ペットボトル茶は色々ありますが、サントリー『伊右衛門・特茶』がお気に入りです。

 

昨晩、京都駅の自販機で買い、飲み残したものを帰宅後、冷蔵庫に入れておきました。

 

今朝起きて、冷蔵庫を開けてビックリしました。

 

買い置きのものと並べておいてあったのですが、何と、ボトルの形が違うではありませんか。

 

新しくデザインが変わったのかと思いました。

 

そこで、メーカーサイトを見てみると、この商品のペットボトル容器は、店頭販売用と自動販売機用の2種類があるというではありませんか。

 

今まで何度も自販機で買っていたにもかかわらず、まったく気が付きませんでした。

 

先入観というか、思い込みというか、私の目が節穴であったことに、ささかショックを受けたことです。

 

以下、メーカーサイトよりの抜き書きです。

 

【『伊右衛門 緑茶』や『伊右衛門 特茶』の竹筒型のボトルは、日本の伝統的な竹でできた水筒をもとに、竹林をイメージしたものです。

 竹筒型のボトルの形状や大きさは、自動販売機で適さないため、自動販売機に合った形のボトルを製造しています。

 『黒烏龍茶』350mlや『DAKARA500mlなども同様の理由で、自動販売機用と店頭販売用の2種類の容器で販売されています】

 

 

 

 

志賀直哉の小説「城之崎にて」の城崎温泉が、とんでもないことになっているようです。

 

「さとの湯」「地蔵湯」「柳湯」「一の湯」「御所の湯」「まんだら湯」「鴻の湯」の七つの外湯めぐりが楽しめます。

 

ずっと以前は、昔からの温泉町がそうであるように、ヤクザが絡んでいたのですが、地元の人達の努力で一掃しました。

 

健全、安心、安全な温泉街にしたのです。

 

しかし、大人の遊びが出来なくなった温泉街は、ひっそりとしてしまったのです。

 

そこで地元の人達は、新しい客層を目指して努力しました。

 

その甲斐あって、家族連れ、会社関係の宿泊宴会、大学生のゼミ旅行等で賑わったのです。

 

そして又々努力を重ね、外国人観光客の「体験型」の旅を好む傾向にシフトしたのです。

 

ここ6年で、城崎周辺に宿泊する外国人旅行者の数は36倍に伸び、注目の温泉地となったということです。

 

城崎温泉協会(こんな名前の協会があるかどうか分かりませんが)方々の努力は素晴らしいですね。

 

今宵も、訪れた外国人達が、超熱い外湯で悲鳴をあげ、旅館のゆかたを着て、温泉街で射的や、スマートボール等、レトロな遊技場で歓声を上げていることでしょう。

 

昨日テレビコマーシャルをしている世〇谷食品の「フリーズドライ味噌汁」を注文するためにフリーダイヤルで電話しました。

 

インフォメイションの若い女性は、住所、氏名等の必要事項を次々と聞いてきました。

 

その後、こちらの要望を言う毎に、「少々お待ち下さい」を繰り返すのです。

 

結果、10回程、「少々お待ち下さい」と言われて、少々どころでない時間待たされました。

 

フリーダイヤルで掛けたから良かったものの、長時間電話になってしまいました。

 

言われたことしか出来ない、指示されたこと以外分からないのです。

 

マニュアル通りの受け答えは出来ても、それ以外のことに臨機応変な対応をすることを教育されていないのです。

 

そんなマニュアル人間を、近頃多く見かけるようになりました。

 

多くの外国人観光客を見るにつけ、開いた口がふさがらないということに出合います。

 

それは、習慣の違いからなのでしょうが。

 

今日、隣国であっても、これほど善悪の基準(価値観)が違うのかと思い知らされます。

 

人は、いつも善悪を判断しながら生きています。

 

善いことだと判断して行動し、悪いことだと思えばそうしない。

 

しかし、その善悪を判断する基準は、国によって違いがあります。

 

その違いにより、国際摩擦が起き、最悪戦争ということが起きる場合もあります。

 

又、同じ国であっても、時代により違います。

 

昔は善きことであっても、今は悪いということもあります。

 

又、善しと思ってしたことが大層迷惑をかけたり、反対に悪いかもしれないと思ってしたことが大層喜ばれたということもあります。

 

もっとも、よくよく思考すれば、私達の善悪を判断する基準は、『自分の都合』という目盛りの物差しで測っているのではないでしょうか。

 

損得、利害といってもいいでしょう。

 

自分にとって都合の良いことを「善いこと」、都合の悪いことを「悪いこと」と判断しているのでしょう。

 

それは致し方ないことなのですが、たまには、相手の価値基準をも鑑みるようにしてはどうでしょうかねぇ。