1 隋(581~618)
都:大興城(長安付近)
■ 楊堅(文帝)
北周の外戚で、禅譲(帝位を平和的に譲り受ける)で即位
南朝の陳を滅ぼして中国統一(589)
土地制度:均田制(北魏で創始され、唐にも継承される)
成人男子に均等に土地を支給し、租税と兵役を負担させる
税制度:租庸調(租…穀物 庸…労働(絹布で代納可) 調…布)
軍制度:府兵制(西魏で創始 唐に継承、成人男子を徴兵した)
都の警護は衛士 辺境の防備は防人という
官吏任用制度:科挙(試験による選抜)
大運河の建設を始める
■ 煬帝(604~618)
大運河の建設…黄河と長江を結ぶ運河を建設して江南の物資を運搬
しやすくした
607年日本の聖徳太子、遣隋使(小野妹子)を派遣 対等な外交を要求
高句麗への遠征…3回すべて失敗 この遠征の失敗が農民の大きな負担と
なり、隋の滅亡の原因となる
運河の順番
① 広通渠
② 山陽瀆
③ 通済渠 ③以降は煬帝が建設
④ 永済渠
⑤ 江南河(長江~杭州を結ぶ)
2 唐(618~907)
■ 李淵(高祖)隋を滅ぼして唐を建国
都:長安 漢以来の統一貨幣、開元通宝発行
■ 李世民(太宗)
628年に中国を統一し、『貞観の治』と呼ばれる安定期を築く
630年東突厥を服属させ、天河汗の称号を得る
律令国家体制を樹立させた
(官吏任用は隋以来の科挙を実施)
3 律令国家体制
法律…律(刑法に相当)令(民法や行政法に相当)
格(補足)式(施行細則)
中央官制…三省六部一台
三省…門下省(貴族の牙城となる)詔勅の審査、差し戻し権があった
尚書省六部を統治した
4 唐の発展と対外政策
■ 高宗(649~83)
新羅と連合して百済・高句麗を滅ぼす→新羅は後に唐勢力も駆逐
西突厥を服属させた→唐の最大版図を実現…周辺に都護府を設置
※周辺国に対しては、覊縻(きび)政策を実施(…ゆるやかな支配)
陸上交易…ソグド人(イラン系)が担う
海上交易…アラブ人(イスラーム教徒)が担う 広州に市舶司(海上交易
を管理する役所)を設置
外来宗教…三夷教マニ(摩尼)教・景教(ネストリウス派)「大秦景教流行中国碑」建設・祆教(ゾロアスター)+回教(清真教・イスラーム教)が流行
広州に市舶司(海上貿易管理)を設置 外国人居住区は蕃坊 アラブ(ムスリム)人は大食 |
5 唐の衰退
●武韋の禍(ぶいのか)●(690~710)
則天武后(高宗の皇后)…中国唯一の女帝で国号を周と変更
科挙官僚を積極的に登用など、変革を実行
韋后((いこう)中宗=高宗の息子の皇后)が実権を握ろうとするが失敗
李隆基(玄宗の皇太子時代)が阻む。
■玄宗(712~56)…繁栄期だが、玄宗統治末期から社会が混乱、変化
『開元の治』と呼ばれる善政
8世紀:人口の増加・商業の発達にともない農民の貧富の差が広がる
→口分田を放棄して本籍地を離れ、逃亡者が増える
749年:府兵制を廃止→農民から傭兵を募集する=募兵制に
節度使(辺境の軍司令官)を整備
→次第に地域の行政・財政を任され、兵士を私兵化
タラス河畔の戦い(751)アッバース朝に敗北 将軍は高仙芝
→製紙法がイスラーム世界に伝播
安史の乱(755~63)
原因:玄宗が楊貴妃を寵愛 一族の楊国忠を重用したことが、
節度使の安禄山(ソグド人)の反感を買い、部下の史思明と共に反
乱を起こした
→1時長安を占領。玄宗と楊貴妃は逃亡。(白居易の『長恨歌』)
→北方のウイグル族の援助により、反乱を鎮圧
→各地の節度使が自立化、、中央政府の統制力は弱まる
→藩鎮といわれる
ウイグル、吐蕃、南詔などが領土に侵入。唐は領土を縮小しながら存続
・荘園の増大により、税収が減少、均田制の崩壊
→楊炎の献策で両税法を実施(780年)
・土地や資産の大小に応じて課税
・夏と秋のいずれかで徴収(原則銭納となる) (761年より塩の専売実施)
商業への規制が緩む。城郭外に草市が発生。
商業が展開し、飛銭(送金手形)の発生
6 唐の滅亡
節度使が自立化 藩鎮として地方の軍事・財政・民政を掌握
黄巣の乱(875~884)…塩の密売黄巣が、王仙之(おうせんし)
の挙兵に乗じて反乱を起こした
→反乱軍の朱温が裏切り失敗するが、この朱全忠(反乱を鎮めた功績で、全き忠義を持つ者としてこの名を唐皇帝に与えられた)が唐を滅ぼし、五代十国時代に突入する(907~960)