ハイエクである。今なお続く新自由主義の波、その大元の大元と言える。

 本書は集産主義とハイエクが呼ぶもの、有り体に言えば「共産主義、社会主義、全体主義、計画経済、ファシズム」といった系統の思想を、これでもかと批判したものである。第二次世界大戦当時に書かれているので、当時ファシズムをどのように受け止めていたかなどリアルな空気を感じる。

 集産主義は効率的でない。集産主義は独裁化する。集産主義は思想を支配する。集産主義は悪が権力を持つ。集産主義は頭の悪い人間が多い程成立しやすい。

 と現代ではコテコテあるいは偏見と言えるイメージを論理立てて説明している。批判書であるので、かなり主観の効いた解釈なども含まれる(例えば「思想統治されて経済的に平凡な生活を送れる世界」と「自由だが資産格差がある世界」では、後者の方が良いと断定している)が、当時が第二次対戦真っ只中であったことを考えると強引にでもファシズムなどに対立しようという気持ちが生まれることもあろう。

 思想面として気になることは、新自由主義に続く思想のベースとなる自由主義の世界は、一方から見れば完全平等の競争社会の理想郷であるが、一方から見れば能力者、資産家(またはその相続者)のみが謳歌する完全な格差社会となる。その意味では、階級がより重層的であるだけで、システムとしては全体主義とそう違わない。それは経済に限った話だと思われるかもしれないが、経済的自由と人間活動の自由が直結することはハイエクも認めてあるところである。

 現実面として気になることは、制度として個人の思想がある程度尊重され、SNSにおける匿名性という盾の下で市民が自由に発信する現代で目立つのは、自分達の常識や倫理と違う思想を持つような人間への集団口撃である。それはまさに、自分を含む多数派の思想があたかも権威であるかのように、ズレた人間に対してある種の矯正を押しつけるような構図にも見える。

 つまり、構造として多少の違いはあれど、自由主義も全体主義も行きつく先としては似たような社会現象を発現しうるということだ。その地点まで、国家の強制によって辿り着くか、市民が自らの足で辿り着くかしか違わない。国家に思想を強制されることに慣れていない日本人が習近平率いる中国の政策に違和感を覚えるように、到達地点までに経由する国家統治のあり方が市民の基礎的価値観を醸成することもまた確かではある。しかしそれは向こうの乗ってる船の性能に疑問を感じているだけで、潮目としては同じゴールに向かっている可能性が高い。

 ハイエクの書き振りとしては、こういった人間の根底のあり方、思想発展のレールの面についても理解しているように感じた。そもそもハイエクは本書のスタンスとして、当時の自由主義国家は集産主義国家への道のりを辿っているという危機感を持っているからだ。そして、情報が極限の速度で伝達する現代で、市民レベルでハイエクの恐れていたことの芽が出始めているような気がするのである。