地獄の沙汰もカネ次第 | スパチーの独り言

スパチーの独り言

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独り言で恐縮です
神社仏閣を「好き」になって欲しい
でも依存と鵜呑みはダメ
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令和 4年 6月 11日 土曜日、晴れ。

夕べは夜中から急に気温が上がり目が覚めた。「うぉぉ今年初の熱帯夜か!?」 とはいえエアコンつけるも嫌だし何も掛けずにそのまま寝ました。 やっぱ今年は暑いんだろーなぁ…


さて。

キリストが怪しい存在だったのは遥か昔から。 そして釈迦にしても聖徳太子にしても、みーんな出生に秘密がある。 蘇りし我は馬やとの子、ウヤマト王子、大和王朝。 五十鈴とはイエスのことだし稲荷は初期キリスト教、アマテラスとはアブラハムだし、どう転んでも大和魂ってのはキリスト教徒の支配する隠れ蓑だが、日本がキリスト教にならなかったのは当の本人である蘇我一族が間違いに気付いて復活したこと。 まさに日本において実現したメシアだったのが聖徳太子ということになる。 しかし古代ローマから悪知恵を持ち込んだユダヤの使徒たちがそんな程度で引き下がるわけがなく、ならば聖徳太子を観音菩薩としよう、それで仏教さえも上書きしてしまえ、ということだ。 旧約聖書から新約聖書へ、上座部仏教から大乗仏教へ。 釈迦は説かなかった地獄の存在、そして階級制や復活甦り=輪廻転生、多様な神仏を仏教に取り入れた、いわばユダヤ教を元にしたバージョン4を日本に展開したのかもしれない。

そうすると神道は元々イランのゾロアスター教だったはずが、誰も偶像崇拝は止めやしないので儀式こそユダヤ教の踏襲だが、善悪無しの何でも崇拝としてそのまま残った。 しかも仏教が加わり宗教のごった煮になってしまった日本、誰にも収拾が付かなくなる。 なんでだー!と現在の世界からも思われている通り、当時の権力者たちも考えただろう。「欲深過ぎ」た。 そして感受性が強く、美しいものや壮大な自然にさえ拝み、祈りを捧げてしまう民族。 本来の善なる神、ニンマーやニンギシュジッダからすれば、日本民族こそ世界一、愛に満ちた人々に仕上がったはずが_アブラハムの血を引く絶対帝国主義、ヤマト政権によって志半ばで撤退することになってしまった。 そのせいで 「自分の欲求に合わせて神仏を創る欲望は 「神頼み」 しかも善悪を問わない、強い者こそ神という予定と正反対の強欲主義、新たな宗教観が日本に定着してしまった。 これぞ本末転倒、日本だけが持つ 「神さまにお願い、神さまの言う通り」 である。

神仏を祀り敬うのではなく「依存」、武運の神、豊穣の神、治癒の仏、和合の仏、呪詛… すべてを神仏に依存するクニの運営が始まる。 呪いを怖れ社を建てる、神のチカラを得るためにイケニエとしてケガレを奉じ、神の怒りという力業を見出す。 やがてイケニエはゴミにとって代わり、カワラケから不法投棄の文化 「投げちゃえ」 が定着もする。 神仏、依代、神木、神馬、梵鐘、とりあえず 「何でも祈っておけ」 ば、何をしようが欲望の思うがまま。 「敵軍が死ぬように、負けるように」 「雨が降って沢山の米が獲れますように」 日本での宗教とは、いつしか欲望のはけ口になって行った。 どこにも善悪という区分が無いままに歩んで来た、それが真実でしょ?

民間においても神仏依存は浸透し、姥捨て、口減らし、村八分など、殺ってしまったらその度に祠を建て、あるいは地蔵を立て、村が大きくなったり大人数の遺体が出れば神社を建てた。 そこにはクニからの神職は存在しない。 同様に仏閣、寺と僧侶は優遇されて来たがために、兵曹にも満たない愚連隊 「僧侶は偉いのじゃ、何をしてもええんじゃ!」 という勘違いが爆誕する。 それは武士や農民まで 「僧になろう」 と夜逃げ同然でつらい仕事を放棄して仏門を叩いた。 その一掃の一つが比叡山焼き討ちでもあるし、そんな程度でヤクザ稼業をやめるわけもなく、関ヶ原合戦さえも参加者の多くは僧たちである。

僧兵

不殺生戒? なんじゃそりゃ、喧嘩売っとんのかゴラァ!」


そもそも難しい、いや正直言って読めやしない経典。 掃除や食事の支度など 「お前らやっとけよ、チクったらただじゃおかねーかんな?」 現在も続く学校のイジメと変わらなかったろうことも容易に想像できる。 大きな寺とはいえ数千数万と修行僧が集まって来たら、他に正業も救済も無いのだから、サボっていようが町で飲んで暴れていようが、山賊になっていようが、賭場を開いていようが_知ったこっちゃない。 正直、住職も手に負えなかったろうし、また真面目に学んでいた親鸞や日蓮が修行や読経がバカバカしく思うのも無理はない。 だからこそ 「なんまいだー」 か 「なんみょーほーれ」 とだけ唱えれば仏に成れると説き、そりゃラクで簡単だと民衆が飛び付いたのも言うまでもない。 民衆が飛び付いて感謝してくれる=カネになる、労せずボロ儲けできるナリワイの爆誕でもあった。 「地獄の沙汰も金次第、坊主丸儲けってか」

神さまも仏さまも、絶対に、間違っても 「あんたらの願いなんて決して叶えません」。
そんな都合のいい考えは今すぐ止めた方が良い。 平凡な日々を送れたことに感謝を祈るだけにしよう。(追伸に続く)



[今日は傘の日]

あいあい傘したことある?

彼女でもない女性が傘を差しだしてくれるとき。小さな傘に寄り添う二人。
正直、恋人同士で相合傘なんて当たり前。この…絶妙な二人の間柄、距離感、親密さ急上昇。
そこまで仲が深くなくても急接近、そして_
このシチュエーションがたまらなく好きでしたね(爆) ごめん、正直若い頃はモテまくりでした。



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ニコニコ またねー


p.s.

上座部仏教では釈迦オンリーです。なので東南アジア諸国で仏像と言えば釈迦以外に無いし、釈迦以外の神仏も存在しない。 ご都合主義の大乗仏教では様々な仏さまが位階、差別を付けて多数存在する。 密教に至っては武将だの眷属だの…もはや宗教を越えてファンタジーかもしれないが、同様にキリスト教も、ユダヤ教では名前を伏せたヤハウェだけだったのに、マリア様だのロザリオや宗教画、ペテロだのアンデレだの、やはり収拾が付かない偶像崇拝まで抱え込んだ教えに変化した。 遡れば仏教の始まり、ゾロアスター教の善悪がインドに来て善神と悪神が逆転すること。 一つだった同じイランインドで何があったかと言えば西からマルドゥクが、そしてイナンナは男を求めて放浪に出てしまったこと。 インドは言い換えればギリシャ神話をそのまま宗教にしてしまうかのような捉え方をした。 阿修羅は善か悪か。 まさに神々帝国に戦いを挑んだ堕天使マルドゥクをどう考えたか、かもしれない。 紀元前1500年頃…インドの語源となるインドラ、何度もヴルトラハンや梵天の章で書いている人物ですが、これがマルドゥクなのか。 ゾロアスターでは悪魔族の魔王であったのにヴェーダ、バラモン教、ヒンドゥー教では最高神に逆転する天皇であり帝釈天。 日本で言えばスサノヲが善なのか悪なのか、いやそもそも日本に善悪という分別はありません。 多く人を殺した者や執念深い者が神だ。

また_タントラ、チャクラ、ヨーガなど神秘的生理学こそニンマーの専門家分野なのでこれは間違いない。 ただ…これも性的な部分もある。 一概にイナンナだけにインド、密教におけるセクス探求を押し付けられるものでもなく、ニンマーが真面目に説いた性や性器が変化した可能性もあるかもしれない。

※ 昨日の追記に追記して 「神からの証」 の写真と解説を入れておきました。