桜木は立ち上がった。そして、最上に向かってこう言った。

「貴方は前世において、私に真っ先にエデンに降りるよう仰せになり、後に自らも側近の者と転生されると、申しておいででした。しかし、私が前世を去りし後、新手の敵と幾つかの戦いがあり、これを全て退けた事、更に三つ目の人間界が滅亡した事をエルフレムから聞いています。願わくば一刻も早い、記憶回復を望んでおります」

桜木はそう言って、七海に振り返った。七海は立ち上がった。

「魔神エルフレムはあたしだよ。そうなんだよねぇ。あんたその被害状況の詳細言わずに守りを一人の側近に委ねた後、一軍率いて転生を促したんだけど、その後、自らも転生に行っちゃってさぁ。まあ、遅れは取れないからね、あたしも来ちゃったのさ。だから詳細は知らない。ただ残念な事に、多分あの様子だと、側近格に犠牲が出てるんだよ」

 最上は事の重大さを理解するのだった。

「仰せつかっていたパワーゲートの設置に関してですが、最適と思われる場所は、幾つかございました。戦略的な地理を考慮し、陸上の最適地に的を絞りました結果、富士の麓が宜しいかと思います。各勢力の魔神達もこの国に降り立っている事から、ここを争奪、死守する戦いが予想されます」

桜木はそこまで言うと、再び眼鏡を手にとってそれをかけた。

「外の連中、そろそろ相手してやらないとマズイかな? あたしの事はこれまで通り鞘邑でいいから」

七海は凶悪な笑みを浮かべて、そう言うと、扉へ向かって歩き出した。外へ出るつもりらしい。

「最後に申し上げておきます」

桜木が改まって口を開いた。七海も戸口で立ち止まって振り返る。

「我等が仕えし崇高なる魔神。その御名はエルヴァンティス。四人の妻と五十余の側近、六十万の魔神の軍勢を従えた皇帝にして、二つ目の人間界ランディオンの覇者。魔王エルヴァンティス、それが前世における貴方のお名前です、陛下」

 桜木と七海は生徒指導室を出て行った。

そう言えば、王に会った時、何て名乗ればいいのだろうか? 最上はよもや名乗るべき名前も思い出せない自分に気が付いた。それも困るなと思ってみる。こんな、自分の名も思い出せない出来損ないなど、要らない、と言われるかも知れない。思わず力無く笑ってしまった。

やがて、最上は沈黙を破り尋ねた。

「鞘邑、俺達の王はまだ覚醒していないのか? 会った時の為に、名乗るべき名を教えては貰えないだろうか?」

 すると、二人は途端に笑い出した。何か可笑しい事を言ったのだろうか。それとも、この間抜けな醜態を、同僚として笑っているのだろうか。

「…済まないな。間抜けな同僚だと思うだろうが…」

「誤解だよ、最上」

七海は最上の言葉を打ち消すように言った。

「あんたに王なんていないのさ」

 すると桜木は立ち上がり、足元の影に、まるで水に落ちたかのように姿を消した。昨日、駐車場の闇の中で見たあの能力だ。

最上が辺りを見回す間もなく、桜木は最上の背後に現れる。最上は椅子の向きを机と反対の方へ向け、桜木の目線に合わせる為、立ち上がろうとしたが、その前に桜木が片膝をつき、最上の腰に手を掛けて再び座らせた。すると、桜木は最上の右足を取り、自らの左太腿の上に乗せてこう言ったのだ。

「今までの我等には有り得なかった、人との共存の道を示し、魔神としての我等が誇りを守り、導いて下さった我が主君。それは貴方です」

“………何だと…?”

最上は思った。そんな馬鹿な。何かの間違いに違いない。思わず否定する。

「ち、ちょっと待ってくれ…」

 最上の言葉は制された。

「真実は常に一つ。何も変わりません」桜木は言うのだった。

「最初に言ったろ? 全ては真実。否定の余地は無い」これまで腕組みをしていた七海が、それを解くと、今度は両手を頭の後ろに組んだ。

「…覚醒と言うのは、……力と記憶を取り戻す事か」

「そうだよ」

最上の質問に七海は答えた。

「お前達が散々言っていた…思い出すべき記憶というのは…前世での記憶の事だな」

 声が詰まったのか、桜木が黙って繰り返し頷いているのが見えた。

「あたし達は、同じ魔神を王と崇め、共に戦って来たんだ。最も固い絆で結ばれた戦友だよ。まあ、色々あってさ。で、そう、あの親人派の魔神だ。絆で結ばれた強力な軍団を用いて、戦略的な戦をする勢力の皇帝となったんだよ。彼はとうとう魔王になった。強力だが力押しの他勢力と異なり、彼の勢力では魔神同士が力を合わせるといった戦法が多かったね。あたしこれ大好きでさぁ。まあ人間では当たり前の戦い方だけど、魔神の価値観では、弱者の虚勢に過ぎないとされるね」

 七海はそう言った。

「俺…魔神だったんだな。…お前達と同じ、親人派の魔神」

 最上は仰ぎ見た宙に、僅か十数年の人生を振り返ってみた。

そして日曜日の記憶。デパートの屋上で見た橙の空、美しい水鏡の顔、温かい身体。自分を堕落させそうな程、優しい人の心を思い出した。暗い青春時代に唯一幸福を感じた半日の記憶。人間として過ごした最後の日。魔神の力を知らずに過ごした最後の日。

“成る程…俺は親人派だ…”

全身に力が入らず、へらへらと笑ってみる。最上は泣く事が出来なかった。

暫く会話が無かったのは、桜木と七海が配慮してくれたものだったのだろう。

それにしても、力も良く分からないまま使っている。いずれは覚醒するのだろうか。記憶に関しては皆無である。前世の記憶など、いったいどうしろと言うのだろう。受け入れるべき事実は分かって来たが、不安材料は山積みだ。