探 索 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

早速ですが、クイズです。


日本人で唯一世界地図に名を残す人物がいるのですが、その人は誰?

 

ヒントは・・・〝海〟。

もうお分かりですょネ。 正解は

 

 間宮 林蔵

 

そう、ユーラシア大陸と樺太の間・・・下の地図で縦に点線が入っている地点に 『間宮海峡』 という名がつけられています。

 

今日は、この江戸時代後期に活躍した探検家の命日・没後180周年にあたります。

     
     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

林蔵は1780(安永9)年に現在の茨城県つくばみらい市で農民の子として生まれました。

 

幼い頃から神童と言われる程頭脳明晰だった彼は、幕府の役人が地元で行っていた治水工事に的確な助言をして成功させたことを認められ、幕府の下役人に取り立てられ江戸に。

 

そして全国の治水・新田開発工事に携わり土木工事の知識を積んだ彼は、19歳の時に北海道に渡ります。

 

そこであの伊能忠敬と出会って彼から測量技術を学ぶと、忠敬が本州に戻った後も北海道に止まり、以後12年間にわたり北海道の測量に携わりました。

※この時の測量で作成した詳細な地図は、伊能忠敬(↓)が作成した 『大日本沿海輿地全図』 の北海道部分に採用されています。

 

 

彼は43歳まで約23年間北海道に留まりましたが、その間の1808(文化5)年に幕府の命で樺太を探索、翌年に樺太が島であることを確認。

更に彼は更に鎖国の禁を犯してまで大陸に渡り、黒竜江下流域を調査。 

 

ロシア人の支配はそれ程でなく、むしろ支那人が多い現状を把握し、その記録を 『東韃地方紀行』 として後世に残します。

 

つまり冒頭に彼を探検家とご紹介しましたが、あくまで彼は幕臣の公務として探索を行なったのです。


     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

その後江戸に戻った林蔵は幕命により変装をしつつ隠密(諜報部員)として全国を回り、その頃各地にやってきていた諸外国人の動向調査や密貿易の摘発を行っています。

 

その中で彼が関わったのが、有名な 『シーボルト事件』。(↓)
 


これはオランダ人医師として来日していたシーボルトが1828年に帰国する際、持ち出しを禁止されていた詳細な日本地図を所有していることが発覚、追放処分を受けたもの。

その日本地図のうち、北方地図を彼に手渡したのが当時の天文方・高橋景保であると幕府に報告したのが林蔵とされているのです。

この一件で景保は捕えられ、翌年に獄死してしまうのですが・・・実は彼、林蔵の測量活動における師匠であった伊能忠敬の師・高橋至時の息子。

それ故林蔵は周囲から恩を仇で返した人物と見られ、バッシングを受けることに。

 

しかしそれは告げ口をしたのではなく、当時外国人との接近を禁じられていたのも関わらず景保がシーボルトと交流をもっており、たまたま林蔵がシーボルトから自分宛ての包みが景保宛ての書簡に混じっていたことを幕府の規定に沿って(悪意なく)申告しただけ、とも言われています。

つまりは幕臣として忠実に職務を遂行したわけですが、中々人はそうは見てくれないのが世の常。

林蔵自身も結果的に恩人の師の息子を売ったことになり、辛い思いをしたことでしょう。

結局これが遠因となったのか、その後の彼は引き続き全国探査を続けるも特段出世することもなく・・・1844 (天保15) 年2月26日、64年余の人生にひっそりと幕を下ろしました。

 

シーボルト事件の影響で周囲から冷たい目でみられた彼ですが、反面そのシーボルトにその地図作成の仕事ぶりを高く評価され、オランダ帰国後に彼は著書の中で海峡の最狭部を〝Str. Mamia seto 1808〟(間宮の瀬戸)と記載し、それが間宮海峡といわれる由来となっています。


測量と地図作成に人生を捧げた彼にとって、地図上に自分の名が残ったことは、せめてもの慰めとなったはず。

一般的にあまり知られていない彼の人生を辿った、その題名も 『間宮林蔵』 (講談社文庫・刊)という小説があります。

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歴史小説の第一人者・吉村昭さんの筆による彼の伝記は、日本の裏面史として一読の価値あり・・・だと私は思っています。

科学が十分発達していない江戸時代に、凍傷で指も曲がり異人の襲撃などで何度も命の危険に晒されながらも、怯まず地図作成のため未開の極寒地・樺太に命懸けで何度も分け入った林蔵の執念と勇気は、読者の胸を打つことでしょう。

興味のある方は、是非手に取ってみてください。



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