かっぱえびせん  | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日は、昭和世代のプロ野球ファンには懐かしい往年の名選手、

 山内 一弘  さん

の命日・没後15周年にあたります。

 

     

 

山内さんは、1932(昭和7)年に愛知県一宮市で生まれました。

起(おこし)工業高校卒業後地元・中日ドラゴンズの入団テストを受けたものの、球団の経営事情により入団を断られた彼は、社会人野球の川島紡績を経て1952(昭和27)年毎日オリオンズに入団。


手首の強さを利用した左右に打ち分ける天性のバットコントロールの持ち主であると同時にパワーもあり、3年目からレギュラーに定着した彼はミサイル打線の主軸として活躍。

1960(昭和35)年には本塁打32・打点103で二冠とパ・リーグのMVPを獲得、チームの優勝に貢献しました。


     

 

また大舞台に強く、オールスターでは毎年のように打ちまくり、〝オールスター男〟の異名を取った山内選手は、1963年に〝世紀の大トレード〟といわれた阪神のエース・小山投手との交換トレードでセ・リーグへ。

1965年にはプロ野球史上初の300本塁打、その2年後には川上哲治選手に次ぐ史上2人目の2,000本安打を達成。

1968年に広島に移籍した彼は、現役生活19年中首位打者1回、本塁打王2回、打点王4回、ベストナイン10回を獲得し、1970年に現役を引退。

 

当時の背番号8は、後にミスター赤ヘルといわれた山本浩二選手に引き継がれました。

しかし残念ながら、私自身は山内選手の現役時代は殆ど見た記憶がありません。

憶えているのは、彼のコーチ・監督時代。

巨人・阪神の打撃コーチを経て、1979~81年までロッテの監督を務め、解説者を経て1984年には念願叶って中日ドラゴンズの監督に就任。


     

 

ロッテ監督時代にあの落合選手をドラフト指名するなど、その確かな観察眼と卓越した打撃理論は多くの現役選手を育成・開眼させましたが、一方で教え出したらなかなか止めないことから、ついたあだ名が〝かっぱえびせん〟。

「やめられない、止まらない」という、あの有名なTVCMから付けられたとか。😅

そのロッテ時代のエビソードを、ちょっとだけですが愛甲さんが語っています。(3分過ぎ ↓)

 

 

中日の監督時代、シーズン終盤で中日が追う首位・広島との対戦の最中・・・試合のベンチ裏で、山内監督はなんとライバル広島の一番打者・高橋慶彦選手にバッティング指導をしたことが。

いくら元教え子だとはいえ、ペナントを争う相手チームの主力選手に・・・といぶかる周囲に、山内監督は

「同じ野球人、悩んでいたら助けてやらにゃいかんやろ。」

まさに〝かっぱえびせん〟の面目躍如と言えましょうか。

しかし指導熱心な彼も、監督としてはあまり良い成績を残せず。

ロッテ時代の3年間は4・2・3位、中日時代は2・5・5位・・・3年目は成績不振で途中休養という屈辱を味わいました。

やはり山内さんは、生粋のバッターだったのでしょうネ。

2009(平成21)年2月2日、肝不全にて76歳でこの世を去った〝打撃の職人〟のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3

 

 

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