縁 談 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

皆さんは、エチオピアという国に関してどんなイメージをお持ちでしょうか?

アフリカ最古の独立国家であり、一般的にはローマ・東京五輪でマラソン連覇を果たしたアベベ選手(↓)など長距離走で優秀な選手を輩出していることで知られていますが・・・。

 

 

ちなみに場所は、こちら。(

 

    ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

さて、この地球の裏側・約15,000kmも離れたこの国と日本との間で、過去に皇族の縁談があったことをご存じでしょうか?

1930(昭和5)年に同国のハイレ・セラシエ一世が皇帝に即位し、首都アディス・アベバで戴冠式が盛大に催された際、我が国から駐トルコ大使が参列。

その答礼として、ヘルイ同国外務次官を筆頭とした使節団が翌年来日したのですが、そのメンバーの中に皇帝の従弟の子アラヤ・アベベ王子が加わっていました。


     

 

日本各地で大歓迎を受け、日本文化に感銘を受けた王子は 「日本人女性を妃に迎えたい」 と熱望。


これが新聞紙上に掲載されるや、1ヶ月間に全国から200名もの女性が名乗りを上げたとか。

その中から審査の末最終的に3名に絞り込んで書類をエチオピアに送付、その中から王子が第1候補として選んだのが、黒田雅子さんでした。

 

紀宮様の嫁ぎ先と皇太子妃の名を足した、やんごとなきお名前の女性ですが・・・実はこの方、千葉久留米藩藩主の家系にして黒田子爵のご令嬢。

 

「日本女性が海外に進出するきっかけになりたい」 という高邁な動機から、しかも両親に内緒だったそうですから相当な覚悟をもっての応募だったようです。

 

     

 

この縁談話はトントン拍子に進み、今からちょうど90年前の今日・1934(昭和9)年1月19日に新聞紙上で発表され、〝世紀の婚約〟として大いに話題になりました。

 

これにより多くの国民がエチオピアの存在を知り親善気運が高まったそうですが、何故かその後暫くしてエチオピア側が消極的に。

 

その原因は、(一部にはイタリアという説がありますが、後にアベバ氏本人が語ったところでは)フランス。

 

当時のフランスは第一次エチオピア戦争で同国を援助し、経済進出を果たしていました。

ここでもし日露戦争に勝った日本と親交を深められると、自国の権益を侵される・・・と恐れたフランスがエチオピア政府に圧力をかけた、というのです。

エチオピアが消極的になったことで先行きが見えず、また国際情勢が混沌としてきた中、黒田家側が縁談を断る親書をエチオピア側に送ったことで〝世紀の婚約〟は破談となってしまいました。

 

実はエチオピアが使節団を日本に送った背景には、イタリアらヨーロッパ諸国の武力介入から国を護るため、ロシアを破った日本が力を貸してくれる可能性を探る目的もあったようですが・・・残念ながら事態はエチオピアの思惑と反対方向へ。

 

結局破談の翌年から始まった第二次エチオピア戦争で敗れた同国は、1936年5月にイタリア領となりました。

        

では、その後の2人の人生はどうなったのか?

 

黒田さんは破談後世間から好奇の目を受けつつも、結局日本人男性と結婚された由。

一方のアベバ王子はハイレ・セラシエ皇帝の長子の姻族にあたる女性と結婚しましたが、1974年に起きた社会主義革命により新政府によって全財産を没収された上、2人の息子を処刑されてしまいました。

それでも1人生き残った息子と夫人共々命からがらアメリカに亡命。

 

もし黒田さんが結婚していたら、彼女の運命は大きく変わったことでしょう。

 

いや、運命が変わったのは彼女だけではなかったはず。

 

この後、日本はイタリアと接近し1940年に 『日独伊三国同盟』 を締結、米英との戦争に突入。

もしこの縁談が成立していたら、イタリアとは敵対関係になった可能性もあります。

戦国時代の政略結婚もそうですが、たった一組の縁談の成否が国家の運命をも変えてしまうことも有り得ましょう。

 

この縁談の顛末に関しては、『マスカルの花嫁』(山田一廣・著)に詳細が書かれています。(

 

     

 

なお、このような歴史がありながら、エチオピアは東日本大震災に際して

 

「日露戦争に勝利した日本は近代国家建設の規範となった。1930年に修好通商条約を結んで以来約80年の外交関係がある友好国のために・・・。」

 

と、約2,500万円の義捐金を寄付してくれたことを、最後に付記させていただきます。
 

 

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