今月の拙ブログでは、これまで終戦直後にソ連兵(ロシア人)によって日本人が攻撃・殺害された
【真岡郵便電信局事件】
【占守島の戦い】
【三船殉難事件】
を取り上げてきましたが、今日も学校では絶対に教えない彼らの蛮行をご紹介致します。
それはやはり今から78年前の今日・・・終戦直後の1945(昭和20)年8月27日に起きた
と ん か
敦化事件
と呼ばれる、日本人女性凌辱事件。
敦化とは、満州国吉林省敦化・・・現在の吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市のこと。
ここに、王子製紙が1934(昭和9)年に 『日満パルプ製造敦化工場』 を建設。
その工場に隣接する約2万坪の敷地を高さ4.5mの塀で取り囲み、その中に豪華な社宅と福利厚生用のクラブを造り、そこに日本人社員とその家族約260人が暮らしていました。
日満パルプ製造敦化工場(1936年)
また敦化市内には約2,000名の関東軍も常駐。
しかし1945(昭和20)年8月9日、ソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄 (※破棄通告は同年4月になされていたが、その後1年間は有効という規定になっていた) して突然満州に侵攻。
関東軍と戦闘を繰り広げますが、同月15日に日本が降伏。
19日にソ連軍が敦化市内に進駐すると、関東軍の守備隊は降伏し武装解除。
そして8月22日、ソ連兵は日満パルプ工場内に侵入し1時間以内に社宅の一角を引き渡すよう要求すると、クラブ従業員女性2名を引きずり出し、ジープで連れ去って強姦。
数時間後1人はボロボロになって帰ってきましたが、もう1人は凌辱された後、川に身を投げ行方不明に。
更に8月25日、ソ連軍は日本人男性全員を10km程離れた飛行場に連行すると、残された170人程の日本人女性を独身寮に集め、15人前後に分散して部屋に監禁。
夜になると酒に酔ったソ連兵が独身寮にやってきて機関銃を乱射し彼女たちを威嚇。
そして26日未明に女性たちの部屋に乱入すると気に入った女性を次々に引きずり出して犯し始めたのです。
他の女性たちは丸坊主にしたり顔に墨を塗るなどしましたが効果なく、ソ連兵による強姦は深夜まで続きました。
男性たちが皆殺しにされたと思った一部の女性たちは、相談して自決することを決意。
某夫人が隠し持っていた青酸カリを飲んだ28名の内、23名が死亡。
また他の部屋から引きずり出された際に、剃刀で自決を図った女性もいたとか。
27日朝、見回りに来たソ連兵が集団自決現場を発見して将校に報告すると、彼らは他の女性たちに窓から外を見ることを禁じて遺体をどこかに運び去り、事件の責任を問われることを恐れて暴行を中止。
その後生き残った女性たちは飛行場近くに連行されましたが、彼女たちは全ての持ち物を略奪されたそうです。
更に冬の訪れとともに寒さや飢餓、腸チフスによって87名が死亡したとか。
鬼畜の所業とは、まさにこのことでしょう。
この事件を含め終戦間際に突如不可侵条約を破棄して満州に攻め込んできたソ連軍の策謀と、これに対する日本の対応を詳細に語った書籍があります。
『ソ連が満州に侵攻した夏』
(半藤一利・著 文春文庫・刊)
戦争中ならまだしも、降伏し武装解除した無抵抗の人間に対して非道の限りを尽くし、またポツダム宣言に反して捕虜にした約57万人 (※日本政府発表 但し実際には100万人以上とする説が有力) もの日本人をシベリアに抑留し過酷な状況で強制労働させたソ連軍の実態を通して、同書はロシア人の野獣の如き残虐な民族性を浮き彫りにしています。
私は中学生時代に社会科の担当教師が授業中、
「露助(ろすけ)は絶対に許せないし、信用してはいけない!」
と怒りを込めて言っていたことを憶えています。
当時は何のことか分からなかったのですが・・・歴史を学ぶにつれ、それは正しい教えだったと今は確信しています。
我々日本人は、これらの終戦直後の史実を闇に葬り去ったり眼を瞑ったり、ましてや忘れることなど絶対に許されません。
そして次世代に語り継がなければ、犠牲になった日本人女性に顔向けが出来ませんから。