【特別増刊】 聖 将 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

拙ブログでは、教科書には取り上げられない優れた軍人を何人も取り上げてきました。

上は総理大臣も務めた大将クラスから、下は中尉クラスまで階級は様々ですが、いずれも猛将・智将として名を馳せた方々ばかり。

ですが、今回ご紹介するのはちょっと毛色が違うというか、武勇伝ではなくその道徳心溢れる言動で〝聖将〟と謳われた、


 今村 均 陸軍大将

 

今日は、この多くの部下に尊敬され慕われただけでなく、占領地の住民や敵国からも高く評価された旧日本軍人の命日にあたります。

 

     
 

1886(明治19)年に宮城県仙台区で生まれた今村少年は、新潟県の新発田中学を首席で卒業した秀才で、一高・東大も夢ではありませんでした。

しかし判事だった父親が亡くなったため進路を変え、授業料のかからない陸軍士官学校に進学、更に
陸軍大学校も首席で卒業し恩賜の軍刀を賜っています。


順調に昇進を重ねた彼は大東亜戦争開戦後、第16軍司令官として蘭印作戦を指揮。

敵失もあったもののたった9日間で約10万人のオランダ軍を始めとする連合国軍を無条件降伏させ、バレンバンの油田地帯を制圧。

オランダ統治時代に政治犯として捕らわれていたスカルノらを開放、資金・物資を与えて独立を支援すると同時に各地で学校を建設。

 

一方で捕虜に対しても待遇に気を使い、反日機運を抑えることに成功。

特筆すべきは、1942年11月に第8方面司令官としてラバウルに赴くと、補給の途絶に備えて兵士たちに島の土地を開墾させて自給自足体制を整備するよう指示したこと。

自らも農具を手にして率先垂範で畑を耕したといいます。

これが功を奏し、その後アメリカ軍がラバウルの孤立化に成功しても、同島の日本兵たちは殆ど飢えることがありませんでした。


敗戦後、戦犯として連合国軍により軍法会議にかけられるも、現地人の有利な証言により死刑を免れ禁固10年の刑に、そして第16軍司令官としては降伏させたオランダ軍の裁判で無罪を言い渡されました。


そして驚くべきは、その判決に基づき巣鴨拘置所に収監された彼が 「自分だけ東京にはいられない」 と、かつての部下が劣悪な環境で服役している南方の刑務所での服役を志願したこと。

若い部下を特攻で死なせ、「オレも後から行く」 と言いながらのうのうと生き延びたり、部下を見捨てて我先にと戦地から日本に逃げ帰る上官も多い中、自ら部下たちと同じ環境に身を置こうとしたのです。

この配転の直訴を受けたマッカーサーGHQ司令長官は

「私は今村将軍が嘗ての部下達と共に服役するためマヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。」


と感嘆し、彼の希望を聞き入れました。


彼が赴いたニューギニア近くのマヌス島収容所は高温多湿の劣悪な環境で、収容されていた旧日本兵は睡眠すらまともに取れない状況だったそうですが、今村大将が穏やかな口調で要求した様々な提案をオーストラリア軍は素直に聞き入れ、収容環境はかなり改善されたといいます。

多くの部下を救うことに心を砕いた彼は、刑期満了で帰国後軍人恩給のみで質素に暮らしつつ戦死した部下の慰霊祭にこまめに顔を出し、遺児の就職の世話をするなど遺族の援助に心を砕きました。

出版した回顧録の印税は全てそれらの資金に充てたといいます。

1968(昭和43)年10月4日、82歳で天に召された今村大将・・・戦後は終生、戦争責任者として自らを責め続けていたのかもしれません。


そんな今村大将の生涯を描いたのが、この一冊。

 『責 任 ラバウルの将軍 今村 均 

           (角田房子・著 ちくま文庫・刊) 

 

     

決して礼賛するだけでなく、数々の証言から今村大将の人間像や苦悩を浮き彫りにした秀作です。

武士道・道徳を重んじる日本人の規範として、皆さんにも是非今村大将の生き様に触れていただきたいと思います。

 

大将にまで登り詰めた秀才が、実は子供の頃夜尿症で苦しんだり登校拒否したり、また生涯短気な性格が治せなかった・・・などというエピソードを知ると、凡人の私は少しホッとしたりしますが。

あらためて〝聖将〟のご冥福をお祈り致します。笑3



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