銃 撃 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

国家間の戦争は、そう簡単に起こるものではありません・・・が、時としてそれはたった2発の銃弾がキッカケとなる場合も。

今からちょうど110年前の今日起きた

 サラエボ事件
 

が、まさにそれでした。

ボスニア・ヘルツェゴビナは1878年のベルリン会議でオーストリアの占領下となり、1908年には正式にオーストリア領に併合。

これにセルビアや南スラヴ諸国との統合を望むボスニア住民は不満を募らせます。

 

そんな中、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国は同国皇帝の継承者・フェルディナンド大公夫妻のサラエボ訪問を決定。

 

 

しかしこの日はセルビアにとって『聖ヴィトゥスの日』という重要な祝日であり、かつセルビアがオスマン帝国に敗れたコソボの戦いが繰り広げられた日でもあったため、セルビア人の神経を逆なでることに。

セルビア民族主義者が結成した〝黒手組〟が大公夫妻の暗殺を企てているという情報は事前にオーストリア・サラエボ両政府とも把握していたものの、オーストリアは何らの対応もせず。

またサラエボ政府も国境で彼らを捕縛するよう命令を出しましたが、なんと国境警備兵も黒手組のメンバーだったため、まんまとテロリストの入国を許してしまいます。

そして当日、テロリストの1人が大公らの車列に爆弾を投げつけましたが、爆発まで時間差があったため後続車に乗った12名が負傷。

大公夫妻は予定を変更して負傷者を見舞うため病院へ。

ところが予定にない移動となったためか、運転手が道を間違えて交差点で車を止め、方向転換。

たまたまその交差点に面した店で食事をしていた犯行グループの1人、ガブリロ・プリンツィープ(当時19)がその車に大公夫妻が乗っているのを目撃。

彼はピストルを手に車へ駆け寄り、1発目を妊娠中の妃ゾフィーの腹部に、そして2発目を大公の首に撃ち込み、2人は死亡。
 

暗殺に成功した彼は服毒自殺を図りましたが、拒否反応で毒を吐いてしまい、ピストルを押収された上逮捕。(※未成年のため終身刑となった彼は1918年4月、結核で病死。)

 

   

   事件を報じるNYタイムズ紙    ガブリロ・プリンツィープ

 

当然のごとく、皇太子夫妻を暗殺されたオーストリア=ハンガリー帝国は大激怒。

セルビア政府を非難した上で、帝国を非難する出版物の発禁や公教育からの削除など、到底受け入れがたい内政干渉10項目を要求。(オーストリア最後通牒)

まるで開戦前にアメリカが日本にハル・ノートを突き付けたようなやり口ですが、セルビアは2項目の受け入れを拒否したためオーストリア=ハンガリー帝国は事件から1ヶ月後の7月28日に宣戦布告。

これが第一次世界大戦への口火となりました。

1918年まで続いた同大戦での戦死者は、500万人以上。

 

大公夫妻を殺害したプリンツィープは、自ら撃った僅か2発の銃弾によって世界中に戦火が拡大したことを、獄中からどんな思いで眺めていたのやら・・・? うー

 

 

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