飛 脚 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

10年程前、〝佐川男子〟 なる新語(?)が注目されたことを、皆さんはご記憶でしょうか?

宅配便のお兄さんが、まるでタレント並みの扱いになるとは・・・昭和オヤジの私はただ目を丸くするばかりでしたが、果たしてこの方はどう思っているんでしょうネ?

 

 佐 川  清  

 

今日は一代にして日本有数の運送会社・佐川急便を築き上げた、この創業者の命日・二十三回忌にあたります。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草
 

佐川氏は戦後まもなくの1922(昭和47)年に、現在の新潟県上越市で生まれました。

 

嘗ては松下村塾と並び称された地元名門校・有恒学舎を卒業後、家業を経て1948年に建設会社『佐川組』を設立。

 

その後1957年に奥さんと2人で自転車を使った小さな運送会社を始めたのが、その道に入るキッカケとなりました。

 

中小企業の小口貨物に特化して得意先を開拓し、1966年に株式会社佐川急便に改組。

 

日曜集配などの斬新な発想と、社員に高賃金を保障するかわりに長時間労働をさせるという経営手法、更には各地方の同業者を吸収することにより、同社を一代・30年余りで業界のガリバー企業・日本通運と肩を並べる運送グループ会社に育て上げました。


現在同社のロゴマークは佐川男子ですが、以前は江戸時代の飛脚でした。


実はこの飛脚、「何かお客さんの印象に残るものを・・・」と佐川氏が考え、自ら原案を筆で書いたものだったとか。


意外に、といっては失礼ですが、器用だったんですねェ。

 

その佐川氏の名を私が初めて知ったのは、芸能人や大相撲などプロスポーツ選手の〝タニマチ〟としてスポーツ新聞紙上に載った記事からでした。

 

(よくまぁ、そんな大金をポンポンと・・・)

と唖然としましたが、これだけ気前のいい会社オーナーを政界や裏社会が放っておくわけがありまん。

若かりし頃、建設現場の風呂場で偶然知り合った同郷の田中角栄氏を笹川良一氏に紹介したという程の人脈を持つ彼は、竹下登氏の〝褒め殺し事件〟に絡み、当時の自民党副総裁だった金丸信氏が5億円のヤミ献金受領を認めて議員辞職に追い込まれるなどした1992年の東京佐川急便事件を契機に同社会長職を辞任。

 

その後グループ会社の経営刷新を図る新経営陣と対立し、保有していた自社株を政治団体幹部に譲渡したり告発本を出版するなど、世間を騒がせました。

 

自らが創業し育てた会社に半ば放逐された佐川氏にしてみれば、〝かわいさ余って憎さ百倍〟という心境だったでしょうか?

 

京都の〝佐川御殿〟に住む、謎多きワンマン経営者・・・というイメージが強かった彼ですが、実際には来訪客が気兼ねなく吸いやすいようにとドクターストップがかかっているにもかかわらず自ら吸ったリする気配りの人だったとか。 また、

 

「金は天下の回りもの。 しっかり働いて、しっかり稼いで、しっかり使うことが世のため人のためになるのや。」

 

という言葉は、まさに経済の基本。 

日本一のタニマチと言われた彼の凄まじい金儲けと金遣いは、それを自ら実践したわけです。

 

「なのに金を持ち慣れんヤツは下手に貯め込もうとするから、悪さをするようになる。 金は人間を生かしもすれば殺しもするのや。」

 

この言葉も、含蓄がありますネ。

 

80歳の誕生日を数日後に控えた2002(平成14)年3月11日にこの世を去った佐川氏自らが残された著作が、私の手元にあります。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

亡くなる約半年前に出版された、まさに〝遺言〟ともいえる同書には、氏の経営学・理念が詰め込まれています。

 

 「事業は人と出会うことで始まる。 

 その人と接する時に心がけていた3つの信条とは・・・

 

 ◆ 偉そうな素振りを決してしないこと。

 ◆ 頼まれないでも親切のありったけを尽くすこと。
 ◆ 自分の功名手柄を決して自家広告しないこと。

 

等々・・・。

 

良くも悪くもバイタイティー溢れる昭和時代の大物であり、閉塞感に満ちた現在にこそ必要とされる経営者だったと私は思うのですが、皆さんの評価は如何に?


 

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