赤穂浪士といえば、討入を果たした12月14日を思い浮かべる方が多いと思います。(↓)
・・・が、もうひとつ記憶に留めるべきは、今日・2月4日。
大石内蔵助
をはじめ討ち入った四十七士のうち寺坂吉右衛門(↓)を除く四十六士が切腹して果てた命日・没後320周年にあたります。
1659(万治2)年に大石家の長男として生まれた内蔵助は21歳の時、祖父・父と3代続いて浅野家の筆頭家老に。
いわゆるエリートの家系だったんですネ。
平時においては〝昼行灯〟と渾名されるほど凡庸な家老だったようですが、1701(元禄14)年に主君・浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷沙汰を起こしたことで運命が大きく暗転。
その後の討ち入りに至る経緯は、多くの映画・ドラマで史実・創作を織り交ぜて描かれています。
その中に大石が討ち入りの気配を察せられぬよう、京都・山科で廓遊びに興じる話がありますが、これ・・・大石自身が遊び人で実際楽しんでいた、という説が有力なんだとか。😅アララ
それはともかく、お家再興を目指す穏健派や仇討ちを急ぐ急進派が入り乱れバラバラだった藩士たちをまとめて事を成就させた大石内蔵助の手腕は見事。
身長160cmに満たなかったといわれる大石内蔵助ですが、浪士たちからはさぞ大きな背中に見えたことでしょう。
討ち入り後の浪士達は4つの大名家に分けて預かりの身となり、幕府の決定により全員切腹の命が下ります。
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、預かり先の大名家で次々切腹して果てる浪士たち。
まだ元服して間もない息子・大石主悦(15歳)とは討ち入りの日に別々の屋敷に預かりとなり、二度と会えぬまま共に切腹となった父親・内蔵助の心情は如何ばかりだったか・・・。
あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる
浮世の月に かかる雲なし
主君の不祥事によって大きく運命を変えられたにもかかわらず、一点の未練も感じさせぬ辞世の句。
44歳にしてこの境地に至った大石内蔵助に、ただただ尊敬の念を抱くばかり。
あらためて赤穂浪士のご冥福をご祈念申し上げます。