KOBE | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日は、私自身中学時代やっていた大好きなバスケットボールの本場・アメリカNBAのスーパー・スターであった

 コービー・ブライアント 選手
    Kobe Bean Bryant 

の命日・没後3周年にあたります。

 

   
 

コービーは1978年にペンシルバニア州フィラデルフィアで生まれました。

当時父親がNBAのフィラデルフィア・76ersの:現役バスケットボール選手であり、母親も元NBA選手の妹という家庭環境から、コービーも自然とバスケをやるように。

※コービーという名前は、父親のお気に入りだったアメリカの鉄板焼きレストラン“Kobe Steak House(神戸ステーキハウス)”つまりは神戸牛が由来。

その縁で、彼は1998年に初来日した際に神戸を訪れ、市に募金を寄付。 また2001年から10年間神戸大使を務めました。


父親がNBAからイタリア・リーグに転籍したことで、彼自身も7年間イタリアで過ごした後、故郷フィラデルフィアのローワー・メリオン高校に入学。

3年生時に31.1得点・10.3リバウンド・5.2アシストでペンシルベニア州の最優秀選手に選ばれ、NBA伝説の巨人ウィルト・チェンバレン(↓)が長年保持していた州の高校得点記録を更新して、一躍注目選手に。

 

 

そして嘗てNBAの名選手で当時ロサンゼルス・レイカーズのGMだったジェリー・ウェストが彼の才能を見抜き、1996年のドラフトにおいて全体13位でコービーを指名したシャーロット・ホーネッツから即時トレードで獲得すると、ルーキーシーズンから身長198cmのシューティング・ガードとして活躍。

2016年に引退するまでの20シーズンを(超一流選手としては珍しく)レイカーズ一筋、20年間でチームを5回優勝に導き、オールスター15回出場、総得点33,643は歴代4位。

そして肝心な勝負どころで確実にシュートを決めることから毒蛇の〝ブラックマンバ〟という愛称でファンに愛されました。

彼が如何に凄い選手だったかは、入団時からつけていた背番号8と、途中から変えた24番の2つともレイカーズの永久欠番になっていること、またロサンゼルス市がその2つの背番号を組み合わせた8月24日を“Kobe Bryant Day ”に制定したことからも窺えます。

レイカーズの・・・いやNBAの顔としてマイケル・ジョーダン引退後からレブロン・ジェームズ登場までのブロ・バスケ界を支え、引退後も自身の半生を描いた映画がアカデミー短編アニメ賞を獲得するなど活躍を続けていた彼が突然この世を去ったのは、2020年1月26日のこと。

将来女子バスケットボールでの活躍が期待されていた13歳の次女・ジアナちゃんと乗っていたヘリコプターが墜落し、乗員・乗客9名が全員死亡したのです。

   

この日、アメリカは日曜日。

私は月曜日の早朝からファーマーズ・インシュアランス・オープン最終日の生中継をゴルフ専門チャンネルで観ていたのですが、唐突に若かりし頃のタイガー・ウッズとコービーの2ショット写真が画面に出てきて、ビックリ。

(なんだ、コレ。 あっ、もしかして・・・。)

という私の予感は、その後すぐに当たってしまったことを知りました。

翌週のフェニックス・オープンでは、松山選手を始め多くのプレーヤーが追悼の意を表すためレイカーズの背番号8や24のユニホームを着てラウンドしていたことを憶えています。

41歳の若さで無念の死を遂げたスーパースターのご冥福を、在りし日のプレーぶれを観ながら、あらためてお祈り致します。
 

 

 

 

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