内 戦 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

新年早々にもかかわらず、今から155年前の今日・1868(慶應4)年1月3日、日本の歴史上最大の内戦である

 

 戊辰戦争


の火蓋が切って落とされました。

 

これは薩長を中心とした新政府軍と、旧徳川幕府+会津藩ら奥羽越列藩同盟が以後2年間に渡り各地で繰り広げた内戦の総称であり、その2年の干支が戊・辰であることからそう呼ばれています。
 

これに先立つ1867(慶應3)年10月に第15代将軍・徳川慶喜(↓)は大政奉還を行い、征夷大将軍の辞任を申し出ます。

 

 

しかし政権を朝廷に返上したとはいえ、慶喜は引き続き政府の要職に就き権力を保とうと画策。

現代で言えば、代表取締役を辞任したとはいえ、役員として会社に残り返り咲きを虎視眈々と狙う社長の如きもの?


しかし新興勢力である薩摩藩らはそれを良しとせず、同年12月にクーデターを起こして朝廷を掌握、王政復古の大号令を下させて江戸幕府廃止と新体制樹立を宣言。

これに対し慶喜は内大臣職と領地の返還を拒否すると共に、諸外国に対し自らが外交政策を行う窓口であることを宣言、新政府側との対立が決定的となります。

そして年明け直後の1月2日、幕府の軍艦2隻が兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃。

翌3日に慶喜は諸外国に対し薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、同日夜に大阪の薩摩藩邸を襲撃すると共に京都郊外の鳥羽・伏見において薩長連合軍と交戦を開始・・・この『鳥羽伏見の戦い』が、戊辰戦争の開幕戦となりました。

 

映画 『ラストサムライ』 の影響でもないでしょうが、一般的に薩長の新政府軍が近代的な装備を有していたイメージがありますが、幕府軍もフランスから武器を買い付けており装備は全く遜色なし。

 

戦況は新政府軍有利に推移したものの、まだ総兵力では幕府軍が上回っていたのですが・・・なぜか6日夜、慶喜は側近のみを従え船で江戸に退却。

この敵前逃亡(?)で大きく勝勢は新政府軍に傾き、9日に長州藩が大阪城を制圧すると、以後新政府軍は江戸に向かって進撃。

同年3月には西郷・勝の会談により江戸城が無血開城(↓)され、慶喜は水戸謹慎。

 

更に同年7月には長岡藩・河井継之助(↓)がガトリング銃で抵抗した北越戦争が勃発。

 

1年半にわたる内戦に終止符が打たれ、日本は明治維新へと突入したのです。

 

   

もし慶喜が尻尾を巻いて江戸に逃げ帰らなければ、明治維新はなかった・・・という説もありますが、私は時間の差こそあれこの流れは止められなかったと思います。

それよりも個人的に不思議なのは、それまでインドや中国を手中に収めてきた西欧諸国が、なぜ内戦状態の混乱に乗じて日本を植民地化しなかったのか? ということ。


その理由としては、

◆ 戊辰戦争が比較的短期間で終結し、日本国内がバラバラ

 にならず新政府の元にまとまったから。

◆ 薩長についたイギリスと、幕府についたフランス、更にアメ

 リカと大国が複雑に絡んでいたため、お互いに牽制し合った

 から。

◆ 薩摩・長州がたった一藩で戦争を仕掛けており、その勇猛

 さに諸外国が恐れをなした。

◆ インド・中国に比べ、日本が欧州諸国から遠かったから。


等々、様々な説が唱えられています。

 

おそらくその理由は1つではなく複数の要素が絡んでいると思われますが・・・元寇の際には神風が吹き、明治維新の際にも幸運に恵まれ、日本は東南アジア諸国のように占領・統治されることはありませんでした。

しかしその後、日清・日露戦争で大国に勝利したことで諸外国を恐れさせると同時に、自らの力に慢心を抱いたことが結果的に大東亜戦争での敗北を招いたとも言えますが・・・。

歴史の因果は、実に複雑怪奇です。



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