寄 象 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日は、かつて多くの方に親しまれた

 はな子 さん

の命日・七回忌にあたります。

と言っても彼女は人間ではなく、我が国における最高齢記録を持つメスのアジアゾウでした。

    

大東亜戦争末期、動物園では空襲による逃亡を恐れて猛獣や大型の動物は殺されました。

それ故戦後再開した動物園には、ウサギなどの小型動物しかいないという寂しい状況。

「動物園にゾウがいない。妹にゾウを見せてあげたい。」

という投書が新聞に掲載されたのを機に、子供たちの間でゾウを見たいという声が上がるように。

その願いが、海外に届いたのです。

「日本は敗れはしたが、アジアのプライドをかき立てた。 
戦争が始まった時、日本は負けるという不安もあったが、タイは日本側についた。

私は、日本が負けても英米に対してアジアもこれだけのことができるという証明になる、と友達と話していた。」


と語る元タイ国軍軍事顧問で実業家のソムアン・サラサス氏は、戦争で傷ついた日本の子供達の心を癒そうと、彼の父で戦前同国の経済相を務めたプラ・サラサス氏と共に私財を投じ、1947年春に生まれバンコクにあるタイ王室の御料牧場で飼われていた小ゾウのガチャと米10トンを寄贈してくれたのです。

 

       
                ソムアン・サラサス氏
 

ガチャは2歳半だった1949(昭和24)年8月にデンマーク船オラフ・マークス号に乗せられてタイを発ち、翌月2日神戸港に到着。

そこから貨物列車とトラックで2日後に恩賜上野動物園にやってきました。

当初はガチャ子と呼ばれていましたが、公募によって戦時中に餓死させられたインド象・ワンリーの愛称・花子に因んで 『はな子』 と命名されました。

 ※ワンリーら3頭の象の悲劇に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

はな子がやってきたすぐ後に、同様にインドから寄贈されたインド象の〝インディラ〟も到着。

2頭の象はたちまち人気者となり、上野動物園の入場者数は年末までの3ヶ月余りで100万人を突破、空前のゾウ・ブームに。

はな子はその翌年から〝移動動物園〟と称して都内を中心に東京近郊を巡回。

    

そして井の頭自然文化園を回った際、彼女を見た武蔵野・三鷹両市民から同文化園での展示を求める声が上がり、それに応える形で1954年3月に転居。

以来2016(平成28)年5月26日、自ら更新し続けていた象の日本国内最高齢・69歳で天に召されました。

死因は、高齢により体力の衰えに加え関節炎を患っていたことで2トンもの体重を支え切れず倒れた際、自らの肺を圧迫され続けたことによる呼吸不全でした。

同年9月に同文化園で行われたお別れ会には、2,800人もの市民が献花に訪れたという人気者だったはな子でしたが、その生涯には辛い時期もあったのです。

1956年6月、ゾウ舎に無断で侵入した男性が彼女に踏みつけられて死亡する事故 (この男性は過去に数回侵入歴あり) が起き、更にその4年後には飼育員を踏み殺してしまいます。

それまでの人気者から一転、〝殺人ゾウ〟という汚名を着せられた彼女は、まるで囚人の如く鎖に繋がれただけでなく、来園者に石をなげづられたことも。

そのストレスですっかりやせ細った彼女を救ったのは、飼育員死亡事故の2ヶ月後に井の頭自然文化園に赴任し飼育係となった山川清蔵さんでした。

 

       
                
はな子と山川さん

彼がはな子の鎖を外して運動場に連れて行くなどの世話を続けたおかげで、彼女の:健康状態は回復。

以後約30年に渡り山川さんが世話をし続けたおかげで、彼女は長寿記録を更新できたと言えましょう。


       
      『父が愛したゾウのはな子 (山川宏治・著 現代書林・刊)

2017年5月に、井の頭自然文化園にほど近い吉祥寺駅・
北口広場に彼女の銅像が建てられ、以降待ち合わせ場所として人々の待ち合わせ場所として親しまれています。

    

しかし、私には気になることが一つ。

それは死後、調査研究のためとして台東区上野にある国立科学博物館に寄贈された遺体のこと。

死亡直後、剥製作成に反対する声が上がりましたが、その後どうなったのかが分かりません。

果たして彼女の遺体(の一部)が生まれ故郷のタイに埋葬される日はやってくるのでしょうか?



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