逆噴射  | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日のブログタイトルで、すぐあの出来事を思い出す中高年代の方は多いはず。 その

 日本航空350便墜落事故

が起きたのは、今からちょうど40年前の今日・1982(昭和57)年2月9日でした。

昨日の拙ブログで記事にしたホテルニュージャパン火災(↓)が前日に起きており、2日連続の惨事から国内に不安感が増し、当時損保マン2年生だった私も上司や先輩社員と 「保険金の支払いはどうなるのか?」 などと職場で話をした記憶があります。
 

 

日航350便(ダグラスDC-8)は、同日午前7時34分に福岡空港から羽田に向けて飛び立ち、順調に航行。

しかし午前8時44分頃羽田空港に着陸する段になって、片桐機長(当時35歳)が突然自動操縦を解除し、操縦桿を前に押しスロットルを緩めました。

更には第2・第3エンジンのスロットルを逆噴射の位置に操作したため、機首が異常に低下。

副操縦士(当時33歳)がそれに気づき操縦桿を引き戻そうとしましたが、片桐機長は尚も操縦桿を押し続けたため、副操縦士が

「キャプテン、やめてください!」

と制止したものの間に合わず、350便は数秒後に滑走路から550m手前の東京湾に墜落。


乗員乗客174名中24名が死亡し95名が重傷、54名が軽傷を負いました。


亡くなった方の内6名は、椅子などに挟まれて脱出できなかったことによる溺死でした。

    

 

事故直後、メディアは機長死亡の一報を流しましたが、これは(日航側が流した)ガセネタ。

実際には航空法第75条で定められている乗客救助優先義務を放棄し乗客に紛れて真っ先にボートに乗り脱出し、日航が病院に隔離していました。

その後その脱出場面が映像で報道され、また機長が精神分裂症であったことが判明すると、日航が厳しく批判されることに。


墜落直後、「ああ、やっちゃった。」 と平然と語り、副操縦士に 「何てことをしたんですか!」と叱責されるや泣き出したという片桐機長は、大分県別府市出身。

       


岡山大学理学部数学科を2年で中退し、航空大学校に入学。
パイロットになってから結婚し、一女をもうけました。

無口な性格で酒・ギャンブルはやらず、感情の起伏を全く見せないことからパイロット向きな人物のように思われますが、日本アジア航空へ出向し定期運送用操縦士の学科試験に落ちたあたりから異常が見え始めたとか。

1977年頃から口数が減り陰気な感じになったことから、同僚にノイローゼを疑われるようになり、翌年には家族に対しても不可解な言動が目立つように。

そして1980年頃から体調不良を訴えたり不安定な操縦をしたことから上司に乗務を止められ、精神科を受診した結果うつ病または心身症と診断され、日航は機長を業務から外し、療養させました。

1981年10月には医師から
「自力神経症で抑うつ状態だが、飛行観察時にはこれらの症状は見られず、機長として乗務しても問題はないと思われる」 という意見書が出されたため日航は乗務に復帰させましたが、妻は以前と様子が変わらず不安だったとか。

そしてこの事故の前日も異常操縦をして乗客からクレームがついたにもかかわらず、副操縦士は管理職である機長に気兼ねして会社に報告をせず、その結果惨事を招くことに。

まさに人災、未然に防ぐことは出来た事故でした。

お時間のある方は、当時のニュース映像をご覧ください。(↓)

 

 

この映像の中で、ケガをされた乗客が

「日航自身が病に侵されているのではないか。」

と語っておられますが、それは当たっていたのかもしれません。

なぜなら、この3年後にあの日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落しましたから・・・。(↓)

 


片桐機長は事故後業務上過失致死罪で逮捕されましたが、精神鑑定により妄想性精神分裂病と診断され不起訴処分に。

そして精神衛生法に基づき措置入院し約1年後に日航を解雇された片桐機長は、生きていれば今75歳。


自分が引き起こしたこの大事故について、今何を思っているのか・・・遺族でなくとも聞いてみたいところです。



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