今日は、昭和時代の映画・TVドラマで活躍した二枚目俳優、
夏木 陽介 さん
の命日・没後3周年にあたります。
夏木(本名;阿久沢 有[たもつ] ) さんは、1936(昭和11)年に東京・八王子市で生まれました。
1954年に明治大学経営学部に入学した際、同級生に音楽家・女優で後にヘンリー・ミラーの妻となるホキ徳田さんがいたことが、夏木さんの運命を変えることに。
彼女の祖母の家に寄宿していた画家・中原淳一さんが編集者を務めていた雑誌社を見学に行った際にモデルとしてスカウトされた夏木さんは、1958年に大学を卒業すると東宝に入社。
中原さんに〝夏木陽介〟という芸名をつけてもらった数日後には、『美女と液体人間』でスクリーン・デビュー。
同年には石原慎太郎さんがメガホンを取った 『若い獣』 に、また1961年には黒澤監督作品 『用心棒』 に起用されるなどキャリアを積むと、爽やかさと野性味を兼ね備えた二枚目として、アクション・戦争映画・時代劇・怪獣映画からコメディまで多彩な領域の作品にくまなく出演しました。
そして1960年代前半に映画産業が斜陽化する中、東映の助監督だった松森健さんの監督デビュー作品となるTVドラマ 『青春とはなんだ』 に教師役で主演すると高視聴率を獲得し、夏木さんは一気にお茶の間の人気者に。
1973年に三船プロに移籍した後もTVドラマで活躍した夏木さんでしたが、私が今でも強烈に憶えているのは、『Gメン’75』 の小田切警視役。
口ひげを蓄えた夏木さんのカッコよさに憧れましたし、〝ダンディー〟とはこういう男性のことだ・・・というイメージが私の中で固まったものです。
ただ当時は知りませんでしたが、3話に1話の割合で出演することが条件だったそうで、しかも途中でプロデューサーと会食の支払いをどちらが持つかでトラブルとなり、突然降板してしまったそうな。
1982年に三船プロを退社して個人事務所・夏木プロダクションを設立し、俳優活動を続けるだけでなく賀来千香子さんら多くの俳優を育成しましたが、徐々に軸足をラリー参戦にシフト。
元々大の車好きで、トヨタ2000GTやベンツ・ジャガーなど数百台を乗り換えたと豪語していた夏木さんは、1985・86年にドライバーとしてダカールラリーに出場。
更に1987~93年までチーム 『三菱・シチズン夏木』 の監督として同ラリーに参戦し、パジェロのCМにも出演していました。
しかし2009年に脳梗塞が見つかり、その翌年にはステージIIIの腎臓ガンを摘出して以降は、闘病生活が続きます。
そして2018(平成30)年1月14日・・・腎細胞ガンにより81歳でこの世を去りました。
夏木さんは一見クールな二枚目でしたが、実はかなり短気だったそうな。
撮影現場で邪魔をした見物客の襟首を掴むなど、武勇伝(?)は数知れず。
Gメン’75で共演した丹波哲郎さんに 「夏木の喧嘩っ早さは危ない」とも言われたそうですし、本人もバラエティー番組で
「喧嘩はしない。 だって殺しちゃうもん。」
と平然と言い放ったそうですから、まさに筋金入り・・・いやぁ、人は見かけによりませんネ。
まぁ実際に殺さずに済んで良かったですが・・・あらためて生涯独身を貫いたダンディー俳優のご冥福を、あらためてお祈り致します。