かつて我が国では、大陸の文化を吸収したり交易を行うために使節を送っていました。
それは推古天皇時代の600年に派遣された遣隋使が最初ですが、その後618年に隋が滅び唐が建国された後は、
遣 唐 使
と改称されました。
この遣唐使の廃止が決定したのが、今から1,128年前の今日・894年9月30日のことだったとか。
私のような昭和世代の方は、学校で歴史年表を憶える際に、
「白紙(894)に戻す遣唐使」
という語呂合わせで憶えたはず。
初めて遣唐使が派遣されたのは、630(舒明天皇2)年のこと。
途中663年に白村江の戦いで敗れて以降は朝鮮半島を辿るルートが断たれ、奄美大島などから直接海を渡って大陸を往復ぜさるを得なくなりましたが、中止となった894年まで約230年間に19回(異説あり)使節が派遣されました。
遣唐使は日本から原材料の朝貢品を献上し、唐から品質の高い工芸品や絹織物などを下賜されており、その物品の多くは正倉院に残されています。
ただその間、途中遭難したり襲撃されたり病没するなど、帰国できなかった使節団(員)も少なくなかった、まさに命懸けの任務でした。
しかしそれらの交易よりも日本にとって有益だったのは、仏教の経典を入手したり、最澄(↓)や空海が遣唐使の一員として大陸に渡り、その教えを持ち帰ることができたこと。
そして最も大きな収穫としては、律令制度を知ったこと。
それまでの日本は天皇を中心としていたとはいえ、それはあくまでも慣習の域を出ない漠然とした社会制度しかありませんでした。
そこに律令制度を導入することで、法を基準とした国家運営を行うノウハウを手に入れたというわけ。
それが具現化したのが、701年に制定された 『大宝律令』 と言えましょう。
その後遣唐使は次第に派遣スパンが長くなり、838年を最後に50年以上中断状態に。
これは唐でも内乱が起き政情が不安定になったことも一因ですが、既に日本では国内の文化水準が既に唐に肩を並べたという認識が定着していたからともいわれています。
そして冒頭の遣唐使派遣中止を上奏したのが、894年5月、大使に任命された菅原道真(↓)でした。
彼は任命されてから僅か20日後、唐の国情の乱れとそれに伴い派遣団の身の安全が保障されないことなどを理由に遣唐使派遣の再考を求める〝請令諸公卿議定遣唐使進止状〟を上奏。
これが受け入れられて9月30日に中止が決定された、と 『日本紀略』 に記されています。
※但し近年、この日付については確定でないとする学説が支持されているとか。
実際道真は、その後3年程大使の任を解かれていません。
いずれにせよ、その後唐が907年に滅亡したため、遣唐使は派遣したくても出来なくなりましたが・・・。
因みにこの遣唐使に関しては、日本側の文献では天皇号を用いて唐と対等な交流・交易をしたように記述されているようですが、唐側の記録では日本を対等の国家として扱ったという記述は存在せず天皇号の使用自体も伏せられているとか。
昔も今も、日本は大陸に対して朝貢外交を繰り返していると言わざるを得ないようです。😰