ハングリー | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

私と同年代かそれ以上のオールドプロ野球ファン、特に虎キチには忘れられない選手のはず。

今日は、その


 ジーン・マーティン・バッキー 投手
       Gene Martin Bacque

 

の命日・三回忌にあたります。

 

        

 

バッキー投手は1937年、フランス系移民の子としてルイジアナ州に生まれました。

 

サウスウェスタン・ルイジアナ大学卒業後マイナー・3Aのハワイ・アイランダーズに在籍していた際、解雇寸前だったところを当時スポーツ紙の記者だった有本義明さんの目に留まり、阪神タイガースの入団テストを受けることに。

長い腕から投げられるボールは速かったもののノーコンでしたが、藤本監督はその潜在能力を評価し入団が決定。

背番号は当時の投手としては珍しい〝4〟。

おそらくは、縁起が悪いとして日本人がつけない空き番を当てがわれたのでしょう。

シーズン途中の1962(昭和37)年7月に来日。

当初はやはり制球難に苦しみましたが、杉下茂投手コーチに徹底して下半身を鍛えられ、また320勝を挙げた小山正明投手のスライダーを研究したことでコントロールが定まるように。

オーバー・サイドスローを変幻自在に使い分け、小山投手がトレードで出された後は、村山実投手と共に阪神のエースとしてチームを支える存在となりました。

特に1964年は29勝9敗・防御率1.89という好成績を収め、最多勝・最優秀防御率のタイトルを獲得すると共に、外国人選手として初の沢村賞も獲得。

翌年には巨人相手にノーヒット・ノーランも達成するなど、1968年まで5年連続2ケタ勝利を挙げる活躍をしました。

しかし、彼の運命を大きく変えるトラブルが、1968年のシーズン終了間際に起こります。

同年9月18日に甲子園で行われた対巨人戦・・・
ダブルヘッダー第2試合で先発した彼は4回表、2球連続際どい内角球を投げられたことで王選手がマウンドに詰め寄ると、両軍ベンチから選手が飛び出して乱闘騒ぎに。

この時、王選手の師匠だった荒川コーチと殴り合った際にバッキー投手は右手親指を複雑骨折してしまったのです。

       

これによりそのシーズンはもう投げることが出来なくなり、シーズン終了後には近鉄にトレード。

その後親指は完治したものの、今度は打球処理の際に腰を痛め、結局その年は1勝もできぬまま引退を余儀なくされてしまいました。

もし荒川コーチとの乱闘がなければ、もっと勝てたはず・・・阪神ファンとしては残念至極だったでしょう。

それでも通算100勝は、スタンカと並び外国人投手の歴代4位。

乱闘事件で多くの野球ファンの記憶に残る選手でしたが、実は普段は非常に温厚な性格で、彼を良く知る人には信じられない出来事だったとか。

また当時は外国人選手だからといっても特別待遇などなし。

テスト入団だったせいか通訳すらつかず、妻子と文化住宅住まいで甲子園には自転車通勤。

遠征の際には浴衣を着て日本人選手らと共に旅館で寝泊まりし、同じ日本食を箸で食べていたとか。

日本語を勉強してチームに溶け込むなどハングリー精神旺盛で、小山投手曰く 「日本人選手より日本人的な外国人助っ人」 だったそうな。


一方、マウンドのプレートを土で隠して見えないようにし、しばしばプレートの前から投げるというズルもしていたそうですから、中々の策士(?)でもあったようです。

 

引退後は帰国して中・高校の教師を27年間務めた後、阪神で稼いだ金を元手に牧場経営を行い、時々イベント出演のために来日しては王・荒川ご両人と旧交を温めていたという彼が手術後の合併症により82歳で天に召されたのは、2019年9月14日のこと。

       

今時の若者にそのハングリー精神を見習ってもらいたい・・・そんなことを願いつつ、バッキー投手の冥福をお祈りしたいと思います。


 

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