ロカビリー | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日は、私のような昭和世代の方ならカラオケ等でお世話になったり楽しませていただいた作曲家・歌手、

平尾 昌晃 さん

 

の命日・七回忌にあたります。

      

 

平尾(本名同じ)さんは1937(昭和12)年に東京都新宿区で生まれました。

終戦後神奈川県の湘南に引っ越して湘南学園で小・中学生時代を過ごし、伯父に国立音楽大学教授でクラシック音楽作曲家・平尾貴四男さんを持つ彼は、小学校3年生の時にジャズのLPを聴いて衝撃を受けたとか。

そして11歳の時にはのど自慢大会に出場し、英語で 『奥様お手をどうぞ』 を歌って鐘3つの合格をもらったそうですから、かなり大人びた子供だったのかも。

ジャズ教室に通い朝丘雪路さんやペギー葉山さんと知り合ったという彼は、慶應義塾高校を中退してウェスタンの人気バンド 『チャック・ワゴン・ボーイズ(後のオールスターズ・ワゴン)』 のメンバーに。

1957年にジャズ喫茶に
出演していた際、渡辺プロの渡辺美佐さんらに見初められ、翌年公開された石原裕次郎主演映画 『嵐を呼ぶ男』 に出演。

またその年キングレコードからソロデビューし、3月にリリースした 『監獄ロック』 で10万枚の大ヒットを飛ばすと、その後ミッキー・カーチス・山下敬二郎と〝ロカビリー三人男〟として爆発的な人気を博しました。

しかし1965年には「日頃お世話になっていた」という理由で東京・名古屋の暴力団組長にプレゼントしようと拳銃を不当所持したことで逮捕されるという事件も起こしましたが。

そしてロカビリー人気が下火になると、作曲家として活躍するように。

1967年には布施明さが歌う 『霧の摩周湖』 と梓みちよさんの 『渚のセニョリータ』 が日本レコード大賞作曲賞を受賞し、一気に一流作曲家の仲間入り。

その翌年に結核を患って肋骨を6本も取り除く大手術により長期療養を余儀なくされたことが、本格的な作曲家活動の原点に。

 

その後リリースされた五木ひろしさんの 『よこはま・たそがれ』(1971年)、小柳ルミ子さんの 『私の城下町』(1971年)・『瀬戸の花嫁』(1972年)、中条きよしさんの 『うそ』(1974年)等々、大ヒット曲を連発、

1970年代には作詞家・山口洋子さんとのコンビで名曲をいくつも世に出しましたが、私と同世代以上の方なら何度も聴いたりカラオケで歌った経験がおありのはず。

カラオケと言えば、私が最も印象深いのが、畑中葉子さんとのデュエット曲『カナダからの手紙』(↓)

 

 

1978年にリリースされた同曲も大ヒットしましたが、その3年後に就職し営業マンとなった私は、よく夜の接待でこの曲を歌わされたものです。

またゴルフ好きの私としては、年に一度開催された 『平尾昌晃ブロアマチャリティーゴルフ』 も思い出深いですネ。

毎回テレビでその模様が放映されましたが、多くの芸能人が集うこの大会には普段ゴルフをしない追っかけファンが大挙訪れて黄色い声を張り上げ、普段のトーナメントとは全く違う異様(?)というか華やかな雰囲気でしたから・・・。

 

    

              左端が平尾さん

 

平尾昌晃音楽学校(現・平尾昌晃ミュージック・スクール)を設立して、前述の畑中葉子さんや松田聖子さん、川島なお美さん、森口博子さん、倖田來未さんら多くのタレントを輩出する一方、歌謡曲以外にも 『必殺シリーズ』 などのTVドラマの音楽などを広く手掛けた平尾さんでしたが、2015年に肺がんを患ってからは闘病生活に。

そして2017(平成29)年7月21日、肺炎により79歳でこの世を去りました。

数多くの楽曲やイベントで多くの人々を楽しませたり和ませてくれた平尾さんでしたが、16歳・21歳年下の女性と2度結婚・離婚を繰り返し、亡くなる4年前には長らくマネージャーを務めていた女性と3度目の結婚をしていました。

さすがはモテ男・・・と言いたいところですが、前妻の子供にはその結婚を知らせていなかったそうで、没後に骨肉の遺産相続争いが起きたことは残念至極。

男たるもの、身辺は綺麗にしてから逝きたいものですネ。

って、私は綺麗にしなければならない遺産は全くないですけど。😅


それはともかく、最期に彼が遺した名曲メドレーを聴きつつ、改めてご冥福を祈りたいと存じます。
 

 



           人気ブログランキング