【本日増刊・拡散希望】 拿 捕 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

数年前からの尖閣諸島問題などで日本国民が領土問題に関心と危機感を持つようになったのは良いことだ、と私は思います。

しかしもうひとつの領土問題・・・〝竹島〟を実効支配し続け、二言目には〝歴史認識〟という単語を持ち出して執拗に謝罪を要求してくる韓国に、私はその言葉をそっくり彼らに返したいところ。

 

そう主張するならば、今から67年前の今日彼らが引き起こした


 第一大邦丸事件

について韓国政府の見解を是非問い質したいと思うから。

 

日本の〝汚鮮〟メディアはまず取り上げないでしょうが、この事件は韓国の国家体質・民族性を如実に示していると言えましょう。

 

当該事件が起きた伏線は、その前月18日に時の韓国の初代大統領・李承晩が突如一方的に設定した、下地図の赤線・・・いわゆる〝李承晩ライン〟にありました。


    

その直後の1月22日に福岡を出港した第一・第二大邦丸(各乗員22名)は1953(昭和28)年2月4日、済州島沖20マイル(約32km)の公海上で操業を開始。

 

すると韓国漁船が2隻近づいてきて 「魚は取れますか?」 と日本語で話しかけ、そのまま通り過ぎました。

ところが第一大邦丸が網を揚げ始めた時、約30m離れたところにいた韓国船から警告もないまま突如自動小銃の銃撃を受けたのです。


それは漁船と見せかけてはいたものの、実質的には憲兵・特務隊員らが乗船していた軍用船。


慌てて逃走したものの程なく2隻とも拿捕され、激しい銃撃を受けた第一大邦丸の漁労長・瀬戸重次郎さん(当時34)が頭部に銃弾を受け重傷を負いました。

(※拿捕現場は、上地図・済州島左の×地点)


済州島に連行された船員たちは警察に引き渡され、船内の装備品や漁獲物、船員の私物は全て没収。

重傷を負った漁労長の治療を要求したものの結局ロクな治療を施されることなく、彼は2日後に死亡。

火葬を警察に依頼しても黙殺され、結局船員たちが手持ちの私物を売却した金で葬儀を手配し、松の枝などをかき集めて火葬したそうな。

その船員たちも4畳ほどの狭い部屋に18人が監禁され、しかも食事は一切支給されなかったとか。

船員たちは船中に残っていた僅かな食糧で飢えを凌いだといいます。

そして韓国側は、取り調べで船員に対し領海侵犯をしたというハングル語で書かれた嘘の調書に捺印させましたが、定規とタバコ・マッチの箱で適当に作図した調書の矛盾を日本側に指摘され、結局公海上での操業だったことが判明。

 

アメリカの朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊司令官グリッチ少将が乗り出し会見を求めたことで李承晩大統領は遺憾の意を示し、釈放に同意。

 

2月15日に済州島を離れた船員たちは米軍のフリゲート艦に護衛され17日に佐世保港に到着。 

 

母港・福岡に戻れたのは事件から18日後の2月22日でした。

 

民間船に対する予告なしの銃撃、物品の没収、拘束時に食事を与えないなどのジュネーブ条約違反・・・これらの行為に関して、韓国側はどう釈明・保障するのでしょう?

 

この事件以降、1965年に日韓漁業協定が成立し李承晩ラインが撤廃されるまでに韓国側が拿捕した日本漁船は328隻、拘留された日本人は3,929名に上り、内44人が死傷しています。

 

※同ライン撤廃後も撤退せず韓国に実効支配されているのが、竹島。

 

   

     韓国に拿捕された日本漁船   暴行を受けたとされる日本人漁師

 

しかも日本政府は、この妥結に際し日本人抑留者の釈放と引き換えに常習的犯罪者・重大犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮人472人を釈放したばかりか、彼らに在留特別許可まで与えたのです。

 

敗戦直後の出来事とはいえ、こんな理不尽な要求を呑むこと自体信じ難いことですが、そもそもこれらを要求してきたのは韓国側。

 

盗人猛々しいとは、まさにこのこと。

 

一方的に他国民を公海上で拿捕しておきながら、その釈放の条件に犯罪者の放免を要求する・・・これでは北朝鮮の日本人拉致と本質は同じですし、その民族性は現在に至るまで全く変わっていないと言わざるを得ません。

 

竹島問題の裏にはこういう歴史があることを知ったうえ上で、私たちは領土問題を考えなければなりません。

またこの史実を次世代にしっかり伝えなければ、被害に遭った日本人漁師が浮かばれませんし彼らに申し訳が立ちません。うー

 

 

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