滴骨血、という言葉がある。 「てきこっけつ」と読む。
王陽明の言葉である。
師は自分の血を弟子の骨に注ぎ込む。
弟子もその血を骨に吸い込むように受け取る。
心血を心骨に注ぐ。
教えの伝授はそういう者でなければならない、ということである。
思いをこめる極地であろう。
師弟の間だけではない。
人が一つの業を為さんとする時も、である。
その業に我が血を注ぐように思いを込めることが不可欠である。
この人もまた、自分の業に滴骨血のように思いを込めた人である。
西山 彌太郎 氏 (1893-1966)
1919年に東大の鉄冶金科を卒業し、川崎造船(現・川﨑重工業)に入社。
製鋼技術者として勉励、目覚ましい業績を挙げ、1950(昭和25)年に川崎重工から川崎製鉄を分離・独立させた。
この人に驚くのは、大学卒業論文に 『神戸川崎造船所製鋼工場計画』 を書き、資金調達から生産技術、原料の選定、利潤までを計画設計していることである。
机上の空論ではない。 現実を睨んでのビジョンを打ち立てていたところに、この人の人格ぶりが伺える。
社長になった西山氏は、長年胸に温めていた計画を実行する。
千葉製鉄所の建設である。
これは2つの意味で革命的な大事業だった。
ひとつは、世界で初めての臨海一貫製鉄所だったということ。
それまでの製鉄所は原材料立地が基本で、石炭や鉄鉱石が採れるところに造られてきた。
それを臨海にすることで、海外の良質原料の大量輸入、また加工生産した鉄製品の大量輸出を容易にする一貫性を確立したのだ。
日本を加工貿易立国に死体という西山氏の一念が、そういう製鉄所を造らせたのだ。
もうひとつは、ウォーターフロントの軟弱地盤に大規模な製鉄所を建設する技術を開発した事である。
この技術もまた、世界に先駆けるものであった。
1950年当時、日本はまだ敗戦の復興期である。
西山氏のこの計画は〝無謀極まる〟と日銀総裁はじる多くの批判を受けた。 しかし彼は、
「日本の進むべき道は貿易立国以外にはない。
誰が反対しようとやる。」
という強い信念のもと、直接世界銀行と交渉して2千万ドル(72億円 現在の貨幣価値で600億円以上)の融資を受け、必要経費の163億円を全国行脚して調達した。
西山氏はオーナー経営者ではない。
サラリーマン経営者である。
一介のサラリーマン経営者が自分の事業に深い思いを込め、日本に画期的な影響をもたらす偉業を成し遂げたのだ。
人物評の鋭さに定評のあった歴史学者・会田雄次氏は、西山氏を〝戦後日本の決定的人物〟と評価。
「この製鉄工業の躍進が無ければ、その後の造船・自動車・重電を始めてする重化学工業はもちろん、家電をはじめとするエレクトロニクスも成立しなかったろう。
その意味で西山氏は日本のための巨大な関門を開いた。」と絶賛している。
人はいかなる立場・境遇にあろうと一念を堅持し、その一念に思いを込めることで、いかなる状況も創新することができる。
西山氏の人生が教えるのは、そのことである。
人の思いが人生を創り、時代を創る。
私たちもまた、自分の一道に思いを込めたい。
『小さな人生論・5』 (致知出版社・刊)より一部編集にて