開 校 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

昨年、次の五千円紙幣(2024年発行予定)の顔として選出された、津田梅子女史。

日本における女子教育の先駆者として知られる彼女の功績として最も有名なのが

 

津田塾大学

の創設でしょう。

同大の前身となる『女子英学塾』を彼女が開校したのは今からちょうど120年前の今日のことでした。

 

        

                 開校当時の津田梅子女史

 

1864(元治元)年に幕臣・津田仙の次女として現在の東京・新宿区で生まれた彼女は、幼少時から明治時代に入って職を失った父親が運営する農園の手伝いをしていたとか。

そして1871(明治4)年、父親が北海道開拓使の嘱託となったことで、彼女の運命は大きく変わることに。

開拓使次官だった黒田清隆は女子教育に関心を寄せており、女子留学生制度を企画。

それに父親が彼女を応募させ、弱冠6歳で岩倉使節団に同行して渡米したのです。


(この留学時、彼女と共にアメリカに残った山川捨松・永井繁子両名とは生涯にわたって交友があり、後に女子英学塾創設の際に助力しています。)

 

10数年をアメリカで暮らした彼女はキリスト教への信仰も芽生え、1873年には洗礼を受けました。

※津田塾の学則には、キリスト教精神に基づく教育を行う事が記載されています。

 

学校を卒業し1881年に帰国するも、日本の旧体然たる体質に馴染めず。

伊藤博文の紹介で華族女学校で3年程英語教師を務めたものの、再度渡米。

 

留学中に日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行った彼女は、1892年に帰国後再度華族女学校に勤務。

その後明治女学院や女子高等師範学校でも教鞭をとった彼女は、1899年に高等女学校令・私学学校令が公布されたことを期に官職を辞し、同年7月に『女子英学塾』の設立願を東京府知事に提出。

認可を受け、10人の塾生を迎えて麹町区一番町(現・千代田区)に開校したのが、
1900(明治33)年9月14日でした。

    

                   創立当初の校舎

 

創立5年後に女子校として初の英語科教員無試験検定取り扱い許可を受け、1923年の関東大震災で大打撃を受けたにも拘わらず復活。

1929年に津田女史が逝去した後も後進がしっかりと学校を支え、1933年に 『津田英学塾』、1943年に 『津田塾専門学校』、そして戦後の1948年に 『津田塾大学』 と改称した同校には、
(伝統的に歌われているカレッジ・ソングはありますが)校歌や校章・校旗がないそうな。
 

それは同校の「自ら学び、考え、行動せよ」という建学精神に則ってのことだとか。

 

非常に珍しいことだと思いますが、その自立精神が根付いてのことか、英文学や国際関係学の分野で活躍する卒業生を多く輩出し、女性の社会進出に大きく貢献。

 

就職率も高く、また女性官僚にもOGが多く、入学の難易度も東大や早慶と並ぶほどのハイレベルを維持しているのは、さすが。

 

    


1931年に小平市に移転し、1962年には所在地の町名が校名に合わせて『津田町』に変更されましたが、同大から再びお札の顔となるような才女が輩出するかどうか・・・?

 

 

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