東西決戦 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

天下分け目の・・・と言えば、多くの方が

 関ケ原の戦い

を思い浮かべることでしょう。

石田三成が中心となった西軍(※総大将は毛利輝元)と徳川家康率いる東軍が現在の岐阜県不破郡関ケ原町で激突したこの合戦が行われたのが、今からちょうど420年前の今日・1600(慶長5)年9月15日のことでした。

 

 

   関ケ原合戦屏風(江戸後期・岐阜市歴史博物館蔵)

 

1598年に豊臣秀吉がこの世を去った際、遺言によって徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元の五大老および五奉行に豊臣秀頼の行く末を託しました。

しかし当然のことながら主導権争いが勃発。

秀吉の意を尊重して秀頼を立てようとする石田三成ら西軍と、五大老の筆頭にして天下獲りを目指す徳川家康を中心とした東軍に大きく勢力が分裂。

 

   

          徳川家康                石田三成

豊臣家も秀吉の側室・淀君が石田に、正室・北政所が徳川と手を結ぶ形で対立。

そして1599年に五大老の一人・前田利家が没すると、対決が必至の情勢に。

 

石田三成は1600(慶長5)年7月、毛利・宇喜多・島津・小早川など西国大名を統合して挙兵。

家康も福島正則・井伊直政、それに加藤清正らを味方につけて・・・というか西軍に組みしないよう抑えることに成功し、兵をまとめて東海道を西上。

そして同年9月15日、奇しくも家康が長男・松平信康を切腹させた命日に両軍が関ヶ原で激突したのです。

 

 

 ※松平信康に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

当初軍勢は、西軍が8万以上、東軍が7~10万とほぼ拮抗していましたが、合戦開始と同時に西軍の主力で1万5千の兵力を持つ小早川秀秋が東軍に寝返って側面から攻め立てたため、西軍は混乱。

 

東軍はあっけなく勝利を手にし、石田三成らは処刑。

家康は3年後の江戸幕府設立に向け着々と布陣を打ち、豊臣秀頼は摂津・河内・和泉を領する一大名となり、後の大坂の陣で滅亡に追いやられます。


まさに日本の歴史を決定づけた天下分け目の大一番・・・でしたが、実はこの合戦に関する戦記などの資料は、その殆どが江戸時代に入って時間が経ってから記されたもので、必ずしも史実に即したものとは言えません。

小早川秀秋がなぜ寝返ったのかは、本人が何も言わぬままこの世を去り、また家康が東軍の結束を固めたといわれる〝小山評定〟も、実際に開かれたことを証明する一次資料は現在のところ存在せず。


そもそも西軍・東軍という呼称も、戦後しばらく経ってから付けられたものですし・・・。

そして古今東西を通じ、その戦記は勝者に都合よく書かれてきたことは、皆さんもご承知のはず。

冒頭の屏風絵も、江戸時代後期に描かれたものですし・・・。

その中で、第一次資料を基に考証を重ねた書籍が2014年に出版されています。

 『新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い
                       (白峰 旬・著 宮帯出版社・刊)

 

        

 

もちろん同書に記されていることが全て真実とは言えませんが、今まで通説とされていた合戦の模様が、かなり後世に脚色されていることが分かります。

例えば、当時は東軍・西軍とは呼ばれておらず、更には 『関ヶ原の戦い』 とも言われていなかった、また昼頃だったとされている小早川秀秋の裏切りが実は開戦と同時であり、有名な家康側からの〝問鉄砲〟はフィクションだった・・・とか。

       

                  小早川秀秋

往々にして現実は戦記物に記されているような華々しいエピソードなどはなく、もっと地味で血なまぐさいもの。

そういう意味で、より史実を知りたい
歴史ファンには是非お読みいただきたい一冊です。

個人的には、自ら命を奪った長男の弔い合戦に賭けた家康の執念が、三成らを圧倒した・・・そう思えてなりませんが。

 

 

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