・・・と言っても、読売ジャイアンツやマーラーの話ではありません。
今日は1964年の東京五輪・柔道無差別級で金メダルを獲得し、日本柔道界に衝撃をもたらした身長198cmを誇る〝オランダの巨人〟、
アントン・ヘーシンク
Anthonius・J・Geesink
の命日、日本流にいえば十三回忌にあたります。
ヘーシンクは1934年オランダのユトレヒト生まれ。
家が貧しかったため12歳から建設現場で働いていた彼は14歳の時から柔道を始めますが、20歳の時に日本からやってきた道上 伯(みちがみ はく)氏と出会ったことで大きく運命が変わります。
試合では生涯不敗だったという柔道の達人・道上氏はヘーシンクの潜在能力を見抜き、彼に技や筋力トレーニングを伝授。
それを忠実に実行した彼は、当初80kgそこそこの細身だったものの東京五輪の頃には120kgまでの増量に成功。
オリンピックの決勝戦で対戦した日本の神永昭夫選手が身長179cmでしたから、まるで大人と子供のよう。
圧倒的な体格差は如何ともし難く、ヘーシンク選手は押さえ込みでの合わせ技一本で見事金メダルを獲得しました。
※ヘーシンク選手が神永選手を押さえ込んだ瞬間の映像は、こちら。(↓)
柔道は我が国のお家芸であり、地元開催のオリンピックでは当然全階級制覇できると確信していた日本国民にとっては、大ショック。
彼が一本勝ちを収めた瞬間、満員の日本武道館が静まり返ったそうですから。
しかし私はヘーシンク選手の優勝こそが、その後の柔道競技の国際化に大きく貢献する結果になったと思っています。
なぜなら、もしこの時神永選手が勝ち日本柔道が全階級制覇したとしたら、次回以降のオリンピックで柔道が正式種目にならなかった可能性が高かったですから。
また優勝が決まった瞬間、歓喜のあまり畳の上に土足で上がり駆け寄ろうとしたオランダ関係者を手で制止し所作は、礼を重んじる柔道の精神を体現したものとして高く評価されました。(↓)
その後1967年に引退するまで、オリンピック・世界選手権・ヨーロッパ選手権で合計24回の優勝を重ねたヘーシンクは、一時プロレスラーとして来日するなどしましたが、石油会社を経営する傍ら柔道の指導者としても活躍。
そして現在は当たり前となった感のある〝カラー柔道着〟の導入を推進したのも彼でした。
伝統を重んじる日本柔道界は猛反発しましたが、結局導入が決定。
しかし結果的には視覚的に選手を見分けやすくなり、国際的な〝JUDO〟の普及に大きく貢献したのではないでしょうか?
師・道上氏をして
「指導には何でも従う、素晴らしく素直な選手だった。
酒・タバコも慎み、休日は自然と触れ合いながら体力作りに専念するなど、感心するところは枚挙に暇がない。」
と絶賛され、またオリンピックで金メダルを獲った時は日本での恩師だった日本チーム監督・松本安市氏に、
「先生、すみません」
と謝ったというヘーシンクが76歳で亡くなったのは、2010年8月27日。
素直で謙虚・・・日本人以上に日本人的であり、柔道を〝JUDO〟という国際競技に育てた功労者のご冥福をお祈り致します。