1945年に第二次世界大戦が終結した後のアメリカでは、ソ連との対立や政府内で活動していた同国のスパイが摘発されたこと、また1949年に中華人民共和国が成立したことで、国内に共産主義脅威論が高まりました。
1947年にはハリウッドにおけるアメリカ共産党の活動が調査され、非米活動委員会への召喚や証言を拒否した10人の映画産業関係者が議会でジョク罪で訴追・有罪判決を受けて追放されました。
そしてこのレッド・パージがより一層激しくなる端緒となったのが、今からちょうど70年前の今日・1950年2月9日に、弁護士から巡回裁判所裁判官を経て1947年に共和党所属の上院議員となった
ジョセフ・レイモンド・マッカーシー
Joseph Raymond "Joe" McCarthy
が、同党女性クラブの講演で
「国務省に勤務している共産主義者(250名)のリストを持っている」
と爆弾発言をしたことでした。
マスメディアはこれに飛びつき、翌月には〝マッカーシズム〟という言葉が登場し、これがレッド・パージの代名詞に。
この告発を契機に、アメリカでは政官界だけでなく、マスメディアや映画関係者更には学術界にまで共産主義者の摘発の手が延びました。
その中でも有名なのは、1951年に逮捕され死刑を執行されたローゼンバーグ夫妻。
※この 『ローゼンバーグ事件』 に関する過去記事は、こちら。(↓)
また1952年には、喜劇王チャールズ・チャップリンが、ロンドンに向かう船内で司法長官から事実上の国外追放命令を受けています。
(彼が再びアメリカの地を踏んだのは、アカデミー賞授賞式に出席した20年後のことでした。)
マッカーシーの赤狩りに告発者として協力したのは、後に大統領となったロナルド・レーガンやリチャード・ニクソン、また映画界ではウォルト・ディズニーやゲーリー・クーパー、エリア・カザンなど。
またジョン・F・ケネディーも彼の支持者でした。
共和党はこのマッカーシズム効果で1952年の選挙で大勝し、20年ぶりに大統領選に勝利。
この勢いに乗って、マッカーシーは更に彼自身の前任上院議員だったラフォレット・ジュニアまで追求し、自殺に追い込みます。
しかし何事も程々が肝要・・・その追及の矛先をアメリカ軍内部にまで広げたことで、風向きが変わり始めました。
大将を公然と批判した彼に対し、軍は強く反発。
マッカーシー周辺のスキャンダルを暴露して反撃に出ます。
1954年3月にCBSのテレビ・ドキュメントシリーズ “See it Now ” で、ジャーナリストのエドワード・R・マローが冷静に反論したのに対し、マッカーシーは怒鳴るなど激高し、視聴者の印象を悪くします。
そしてその翌月に上院で開かれた陸軍・マッカーシー問題特別委員会がテレビ中継されたことで、彼の支持は急落。
同年12月、上院はマッカーシーが同院に不名誉と不評判をもたらしたとして賛成67・反対22で譴責決議を可決。
マッカーシーの野望はここで潰え、元々大酒飲みだった彼は急性肝炎を引き起こし、上院議員在職中だった1957年5月に48歳の若さでこの世を去りました。
まさに〝政界の一発屋〟の如き風雲児でしたが、彼の活動は決してアメリカにとって不利益ではありませんでした。
彼が譴責処分を受ける前の1954年8月には共産党統制法が成立してアメリカ共産党が非合法化されましたし、1995年にソ連の暗号通信の内容が公開された際には、マッカーシーに名指しされた複数の人物が実際にソ連のスパイだったことが判明しています。
ですから譴責処分を受けたとはいえ、彼の死去に際しては上院議場で告別式が催され、当時の上院議員としては稀な国葬の栄誉に浴したのは当然と言えましょう。
こういう史実を見るに、未だ公安監視対象である共産党が公党として堂々と活動し、スパイ防止法がない〝スパイ天国〟日本の行く末が心配です。