私のような中高年世代の方なら、この方の名をご存知のはず。
君原 健二 氏
1964年の東京五輪のマラソンに円谷選手と共に出場、そして次のメキシコ五輪では見事銀メダルを獲得した、日本を代表するマラソン・ランナーです。
現役時代に35回、そして引退後も市民ランナーとして39回の合計74回フルマラソンに出場し、その全てを完走したという、まさに鉄人。
その君原氏が、我が愛読誌・月刊『致知』3月号に掲載された対談でオリンピック出場までの少・青年期を述懐されておられましたので、以下に抜粋・編集にてご紹介させていただきます。
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私は小学生の時から勉強もスポーツもできない劣等生でした。
夢や希望を持つことがない、気が弱く喧嘩もできない子供だったんです。
小学校の通知表を今も大事にしていますが、5年生の通知表の先生のコメント欄には、
「温良ではあるが絶えずぼんやりとして真剣味がない。 積極的に努力する気が少しもみられず、態度に明るさがない」
と書かれています。 しかし、そんな私にも欲はありました。
人間は欲がないと成長・進歩はないと思いますが、私が当時持っていた欲は、勉強もスポーツこのままではあまりにも恥ずかしいので、その恥ずかしさを少しでも小さくしたいというものでした。
その小さな欲が小さな力となって少しずつ自分を高めてくれたように思います。
中学2年生の時、私はクラスメートから駅伝部に入ることを勧められました。
運動会で一等を取ったことは一度もありません。
走ることは得意ではないし関心もなかったのですが、気の弱い私には断る勇気がなくて何の目標もないまま駅伝部に入部したんです。
自分でも驚いたのは、中学3年になった時、7番目の最後の選手として学校の代表に選ばれたことでした。
変だな、おかしいなと違和感を感じながらも、これが固定観念を変えるひとつのキッカケになったように思います。
中学時代は目標や夢を持っているわけではなく、友達について行くのに必死でした。
高校時代は教えを受ける環境に恵まれていたわけではありませんので、先生の指示・指導は殆どなく練習は自分から取り組まなくてはいけません。
そういう中で自主性も芽生えていきました。
そのうちに練習の効果が出たんでしょうね。
高校時代にはインターハイに出場することができました。
そのインターハイですけど、思いがけない人物が出場していたことを後で知りました。
福島県の円谷幸吉さんです。
※〝悲劇のランナー〟円谷選手に関する過去記事は、こちら。(↓)
円谷さんは5,000m走に出場して予選落ち。
私は1,500m走で予選落ち。
予選落ちした2人の高校生が共に6年後の東京オリンピックに出場し、円谷さんは銅メダル、私は8位でした。
高校のインターハイで予選落ちするような人間でもオリンピックで活躍できることがあると、是非申し上げておきたいですね。
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劣等生がなぜオリンピックのメダリストになれたのか?
君原氏は少しでも多く練習した方が強くなれる気がして、練習後にグラウンドを1周で半周でも多く走ろう、あるいは道路で練習する時は1つ先の電柱まで、それが出来たらもう1つ先の電柱までいって折り返そうというように、小さな努力を惜しむことなく積み重ねたそうな。
ですから苦しくなるとそこで夢を諦めてしまう人が多いですが、そういう人には目標を小さくするのもひとつの方法だ、と仰います。
マラソンでいえば、ゴールまで20kmという時、あと5km、あと1kmと目標を小さくしながら一つひとつクリアしていくことで、その苦しさを乗り越えることができる、と。 そういう積み重ねの末、
「ひとつのことに10年間、一所懸命に頑張れば相当大きな成果が出せると思っています。
私の場合、中学2年生から走り始めて10年間で4万km、地球1周に相当する距離を走りました。
そして東京オリンピックに選ばれたんです。」
もし成績が伸び悩んでいるお子さんやお孫さんがいらっしゃれば、是非君原氏の経験談を教えてあげてください。