今日は、我が愛読誌・月刊 『致知』 10月号より、藤尾秀昭・編集発行人の含蓄ある巻頭エッセーを以下に一部編集にてご紹介致します。
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〝桃栗三年柿八年、柚子は九年で実を結ぶ。
梅は酸(す)いとて十三年、蜜柑(みかん)大バカ二十年〟
これは円覚寺横田南嶺管長から教わった言葉である。
修行時代、師匠からよく言われた言葉だという。
二十年大バカにならないと、即ちこの一道にバカの如く脇目も振らず打ち込まないとモノなならない、ということであろう。
『致知』は本号をもって創刊四十周年である。
大バカを2倍して今日に至っている。
この四十年を振り返り、感慨がある。
十年で基礎工事ができ、二十年で道の入口に入り、三十年で道の風景が見えてきた。
四十年の今思うのは、一所懸命道を創ってきたつもりが、道に歩ませてもらっていた、という実感である。
そしてそれぞれの機に人生の法則を教わったという思いがある。
十年で得たそれは、人間の花は十年後に咲くということである。
人間の花はすぐには咲かない。 五年、六年でも咲かない。
こんなに努力しているのに、と中途で投げ出す人がいるが、それでは永遠に花は咲かない。
十年の歳月が教えてくれた法則である。
二十年で得たのは、人生は投じたものしか返ってこない、ということである。
人前では健気に努力しているふりをしているが、人目がないところでは手を抜く。
それも人生に投じたものである。
そういう姿勢はその時はさほど意識されないが、数年あるいは数十年後に必ず自分の人生に帰ってくる。
恐るべきことである。
三十年で得た気づきは、人生は何をキャッチするか、キャッチするものの中味が人生を決める、ということである。
同じ話を聞いても同じ体験をしても、キャッチするものの中味は千差万別である。
つまり人生は受けての姿勢が常に問われる、ということである。
そしてキャッチするものの質と量は、その人の真剣度に比例する。
四十年の今抱いている思いは、道は無窮ということだ。
道に限りはない。 人生、これで良いということはない、。
この思いを示す道元の言葉がある。
「学童の人、もし悟りを得るも、今は至極と思うて行道を罷 (や)むことなかれ。
道は無窮なり。悟りてもなお行道すべし。」
道を学ぶ人は、悟りを得てもこれでいいと思って修行をやめてはいけない。 悟っても修行を続けなければならない、というのである。
『葉隠』にも、こうある。
「修行に於いては、これまで成就ということはなし。
成就と思う所、そのまま道に背くなり。
一生の間、不足不足と思いて、思い死するところ、後より見て
成就の人なり。」
修行に完成はない。 死ぬまでまだまだと思って修行する。
そういう人こそ、死んだ後に見ると成就の人だと分かる、の意である。
以上、四十年『致知』の一道を通じて得た学びを記させていただいたが、最近、人間学の究極はこの言葉に尽きるのではないか、と思うようになった。
それを釈迦が端的に表現している。
じょうぐぼだい げけしゅじょう
〝上求菩提 下化衆生〟
である。
どこまでも自分という人間を向上させていくこと・・・それが上求菩提である。
下化衆生とは、その自分をもって人のために尽くしていくこと。
人間は何のために生きるのか? 何のために働くのか?
そして何のために学ぶのか?
その全ての問いに対する答えを、この言葉は包含している。
人生の法則は常にシンプルである。
それを身につけるには一生を要する。
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〝継続は力なり〟という言葉の重みと凄みを、あらためて痛感させられます。