北 西 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

〝火事と喧嘩は江戸の華〟・・・よく時代劇などで燃え盛る長屋の屋根によじ登って威勢よく纏を振りかざすシーンを見かけますが、あれは1718(享保3)年に南町奉行・大岡忠相が制度化した 『町火消』。

いわゆる民間消防組織ですが、現在の消防署の元となったのは、

 

  じょうびけし

 定火消

 

この公的な消防組織が発足したのが、今からちょうど360年前の今日・1658(万治元)年9月8日のことでした。

 

        

              歌川広重が描いた定火消

 

 それまでの江戸には、3代将軍・家光の時代(1629年)につくられた火事の都度奉書によって大名を招集した 『奉書火消』 や、やはり家光の時代(1643年)に大名家を指名してつくられた 『大名火消』 がありました。

しかしこれはあくまで制度化しただけであり、まともな消防組織とはいえないもの。

その消防に関する認識が一変したのは、1657(明暦3)年に起きた『明暦の大火』。

世界三大大火のひとつにも数えられるこの大火災では、江戸町民10万人以上が焼死したといわれています。

※『明暦の大火』に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

 

この大火によって江戸の町殆どを焼失した苦い経験から、4代将軍・家綱は4名の旗本(秋山正房・近藤用将・内藤政吉・町野幸宣)に命じて幕府直轄の 『定火消』 を組織したのです。

 

彼らは飯田橋(下地図・赤印)、市ヶ谷(同・ピンク)、お茶の水(同・青)、麹町半蔵門外(同・黒)に火消役専用の屋敷に配置され、そこに役人(与力6騎・同心30名)や〝臥煙〟と呼ばれる火消人足100~200名を常駐させて、火災発生時にはすぐ出動できる体制を構築。

     

 

約3,000坪と広大な敷地内には高さ約9mの火の見櫓が建てられ、合図のために太鼓や半鐘が備えられていたとか。

地図を見てお分かりのように、4ヶ所はいずれも江戸城(皇居)の北西に配置されています。

これは冬に吹くことが多い北西の風(※上地図・緑の矢印)に火の粉が乗って、江戸城が延焼するのを防ぐため。

 

その後定火消の屋敷は10ヶ所に増えましたが、グルリと江戸城を囲む形での配置に・・・つまりこの定火消の設立目的は、江戸の町民ではなく将軍や幕府を守ることだったのです。

ま、今も昔も役人の考えることは同じってことですネ。
うー

 

ゆえに町民のための町火消が吉宗の時代に誕生したのですが・・・当時は現代のようなハシゴ車やポンプ車などなく、消化用具といえば竜吐水と呼ばれる手漕ぎポンプくらいで、消化能力はあまりありませんでした。

ではどうしたかというと・・・火消したちは〝鳶口〟という先端に鉄製のカギが付いた棒などを使って、延焼を防ぐために風下にある建物を次々と壊したのだそうな。

       


確かに理には適っていますが、威勢よく自宅を破壊された江戸っ子たちの心情は、察するに余りありますネ。
うー
 

 

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