京都に観光旅行をされる方なら、必ず足を運ばれているであろう
金 閣 寺
正式名称:鹿苑禅寺・・・実は、今私たちが見られる金色に輝く舎利殿は、再建されたもの。
室町時代、足利義満によって建てられたものではありません。
なぜなら、今からちょうど70年前の今日・1950(昭和25)年7月2日未明に、全焼してしまったから。
原因は、放火。
当時21歳だった同寺の見習い学僧・林承賢による犯行でした。
この火災により舎利殿の他、国宝・足利義満の木像など文化財6点も焼失。
辛うじて当時取り外してあった頂上の鳳凰のみが被災を免れました。
林青年は、裏の山林で服毒し腹を切って自殺を図り倒れていたところを逮捕され、一命を取り止めたのです。
舞鶴市内にある禅寺の僧侶であった父の許に生まれた林青年は、成績優秀だったものの吃音があったため周囲からからかわれ、人付き合いがうまくできなかったとか。
病気がちだった父親は自らの死期を悟ってか、我が子の将来を託すべく面識のない鹿苑寺の住職に弟子入り志願の手紙を出し、それが受理されて林青年は入門を許されます。
(父親はその後まもなく病死。)
しかし1943年4月に金閣寺で得度式を行い、一旦帰郷して1年後に金閣寺入りした彼は、住職の好意で大谷大学予科に進学したものの、成績が急降下。
吃音に対するコンプレックスが酷くなったのか、はたまた住職の叱責に自分が金閣の住職になる道を絶たれたという不満と絶望からか・・・彼は、「火災報知機が壊れている」 という老案内人の言葉を聞き、火をつける決意を固めたとか。
息子に大きな期待を寄せていた母親は、京都府警に呼び出しを受け上京した際に面会を希望したものの、息子はそれを拒否。
失意の中、彼女は帰宅途中に汽車から投身自殺を遂げました。
そして林青年も懲役7年の実刑判決を受け服役、恩赦による出所後まもなく肺結核により26年の短い人生の幕を閉じています。
彼の内面をこれ程まで卑屈にさせたのは、己に対するコンプレックス・母親との確執・周囲の環境や人間関係などが混ざり合った結果だったのかも。
焼失する前は金箔が剥がれ落ちていた舎利殿でしたが、集まった浄財等により1955年に復元。
(その復元なった金閣寺の写真を、林青年は「無意味なことだ」と言って見るのを拒否したそうな。)
そして1987年には総工費7億4,000万円をかけて金箔全面張り替え工事が完成し、1994年には世界遺産の指定を受けました。
郷里・舞鶴の墓地に、並んで葬られているという林母子・・・あの世から現在の光り輝く金閣寺を、どんな思いで見下ろしているのでしょう。
いや、やはり目を背けているのかも・・・。
この放火については、偶然事件の6年前に林青年と出会ったという作家・水上勉氏が出生地などを取材し彼を知る人の証言を集めて書き上げた
『金閣炎上』 (新潮文庫・刊)
というノンィクション小説を上梓しています。
また、三島由紀夫氏もこの事件を題材に
『金閣寺』 (新潮文庫・刊)
を著しており、中にはこれを三島作品の最高傑作と評する向きも。
興味のある方は、事件の深層を探るべく読み比べてみてください。
読み終わってから見る金閣寺は、より一層輝いて見えるかもしれません。
いや、もしかしたらその逆?