世界で最も有名な探偵・・・といえば、おそらく皆さんもご存じのシャーロック・ホームズでしょう。
〝七夕の日〟の今日は、この名探偵の生みの親
サー・アーサー・イグナチウス・コナン・ドイル
Sir Arthur Ignatius Conan Doyle
の命日・没後90周年にあたります。
彼は世界的に有名な作家ではありますが、決して最初から文筆業で成功したわけではなく、そこに至るまでに苦労を重ねた人物でした。
ドイルは1859年に測量技師チャールズ・ドイルの長男としてスコットランドのエディンバラに生まれました。
ドイル家は祖父や叔父たちが皆画家やイラストレーターとして社会的に成功する中、父親だけが普通のサラリーマンでしかもアルコール依存症で入院するなどしたため、生活は苦しかったそうな。
それでも裕福な叔父の支援でエディバラ大学医学部に進学し医師の道を目指しますが、勉強は退屈であまり馴染めなかったとか。
しかし同大学に在籍していた教授のイメージから、後に彼が生み出したシャーロック・ホームズやチャレンジャー教授が誕生したそうですから、結果的には貴重な体験だったことは確か。
大学卒業後にアフリカ汽船会社の船医として就職したものの、船内で次々発症したマラリア感染患者の手当てに忙殺された挙句本人も感染して生死の境を彷徨う羽目に。
また友人と共同経営で診療所を開業したものの、ものの2ヶ月で喧嘩別れ。
どうも彼は、生まれつき医師には向いていなかったのかも・・・。
しかしそんな彼が副業として小説を書き始めると、短編小説が安値ながら出版社に買い取ってもらえるように。
そして1884年には、シャーロック・ホームズ・シリーズの第一作となる長編小説 『緋色の研究』 を発表。
1891年に(無資格で)開業した眼科医院に全く患者が来なかったことで、彼は執筆業で身を立てる決心をしました。
そこで彼は、既に2作読み切り小説で主人公として登場していたシャーロック・ホームズのシリーズ化に踏み切るのですが、これが大成功。
『ストランド・マガジン』 に連載された短編小説は人気を博し、同誌の売り上げも急増。
そして1892年にはそれまでの短編12作を集め、『シャーロック・ホームズの冒険』 として単行本化。
『シャーロック・ホームズの冒険』 初版本
彼の許に届くファン・レターの殆どがドイル宛てではなくホームズ宛てだったそうですから、その人気ぶりが伺えます。
しかし、彼自身は本来推理小説ではなく歴史小説家として世に認められたかったのだとか。
実際彼に会った日本人も、そう打ち明けられたそうですが・・・しかしファンや出版社はそれを許さず。
業を煮やした彼は1893年12月に発表した 『最後の事件』 でホームズを滝に落として死んだことにしてしまいます。
そして1900年にはボーア戦争の従軍医療奉仕団として戦地に赴き、その2年後にはイギリス軍を擁護する 『南アフリカ戦争 原因と行い』という小冊子を発表。
その功績で国王から〝サー〟の称号を賜ることに。
その間政治家を目指して選挙に打って出たものの敢え無く落選した彼は、再び文筆業に専念。
(まるで沈んだはずの宇宙戦艦ヤマトが蘇った如く)死んだはずのホームズも見事に復活、ファンを安心させました。
その後も冤罪事件に関わったり心霊現象にハマるなどしましたが、ホームズ・シリーズを始め歴史小説を書き続けたドイルには、かねてより心臓疾患があり、1929年頃から発作が頻発・・・そして1930年7月7日朝に71歳で天に召されました。
彼の願いも虚しく、現在でもドイルといえばホームズの生みの親・・・他の作品は殆ど読まれていません。
しかもホームズ・シリーズで得た莫大な遺産に関しては、次男と三男(長男は第一次世界大戦で戦死)が散財し、2人の娘を巻き込んで裁判沙汰が絶えなかったとか。
本人の意に沿わぬ形で売れた本の遺産で子供たちが争う・・・ドイルは天国からその様子を見ながら、大きな溜息をついていたことでしょう。
さすがのホームズにも、解決の妙案は浮かばなかった?