我が国における陽明学の祖といえば中江藤樹ですが、今日は彼の弟子としてその教えを政治の場で実践した
熊沢 蕃山
の命日にあたります。
蕃山は1619(元和5)年に現在の京都市下京区で浪人の父・野尻藤兵衛の長男として生まれました。
8歳の時に母方の祖父・熊沢守久の養子となって熊沢姓を名乗り、16歳の時に備前国岡山藩主・池田光政の小姓役として出仕。
しかし島原の乱への参陣を願い出たものの許されなかったため、彼は一旦近江国の祖父の家に帰省。
独学に飽き足らず師を求めていた蕃山が出会ったのが、同じ近江国で陽明学を教えていた中江藤樹でした。
蕃山は、山を2つ越えて藤樹の主宰する私塾・藤樹書院の講義を聴きに通ったそうですが、父親が浪人の身だった故武士と同じ座敷には入れず、廊下で藤樹の教えを聴き続けます。
そして熱心に勉強する蕃山に声をかけ、片道4時間かけて通っていることを知った藤樹が自宅の馬小屋に住むことを勧めると、彼は
「ご親切な気持ちはありがたいですが、山2つ越えて来るからこそ辛抱の甲斐があるのです。」
と自ら師の好意を断ったと言いますから、実に見上げたもの。
時に藤樹34歳、蕃山23歳・・・そして藤樹の弟子だったのは僅か8ヶ月でしたが、そこで得た学びは以降彼の人生の背骨となりました。
そして陽明学に傾倒していた池田光政は、中江藤樹に学んだ蕃山を再び召し抱えると、いきなり側役として300石を与え、更に1650(慶安3)年には鉄砲組晩頭として3,000石の大抜擢を行います。
蕃山はその期待に応え、1654(承応3)年に洪水と大飢饉に襲われた際には光政を補佐し、領民の救済に尽力。
また藩政改革に取り組み土木事業や農業政策に効果を上げます。
しかしいつの時代にも、新興勢力の足を引っ張る抵抗勢力は存在するもの。
農民に手厚く武士に厳しい政策は家老らの反発を強め、また当時朱子学を重んじていた幕府(保科正之・林羅山ら)からも目をつけられるようになった蕃山は、39歳の時に岡山藩を去ることに。
その翌年、彼は京都で私塾を開校。
多くの武士や町人らを教えましたが、評判が高まるとともに再び幕府から危険視され、京都所司代から追放処分を受けてしまいます。
その後大和国(現・奈良県)などで隠遁生活を送った後、幕命によって播磨国明石藩主・松平信之に預かりの身となり幽閉。
幕府の支配体制が変わり、1683(天和3)年には大老・堀田正俊から招聘されるも、これを辞退。
そればかりか参勤交代など幕政を批判し、更にはかつて仕えた岡山藩をも糾弾。
その姿勢を変えなかったため、幕府は69歳の高齢だったにも関わらず蕃山に蟄居謹慎を命じ、そのまま1691(元禄4)年8月17日に73歳で病没しました。
もう少し世渡りが上手ければ、不遇な後半生を過ごさずに済んだと思えるのですが・・・そうしなかった、いや出来なかったところが蕃山の蕃山たる所以だったのかも。
人間としての生き方を考えさせられますネ。
彼の没した遥か後、幕末期の藤田幽谷・東湖父子や橋本左内、高杉晋作、山田方谷ら多くの志士たちから敬われ、そして安岡正篤先生も高く評価した〝反骨の陽明学者〟の思想を、一度は紐解いてみたいものです。