先 見 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日は、我が国のSF作家の草分けとして名高い

 

  小松 左京 さん


の命日・没後7周年にあたります。

 

        

 

小松 (本名:小松 実) さんは、1931(昭和6)年に金属加工々場を営んでいた父の次男として大阪市西区で生まれました。

 

長兄が京都大学で冶金工学を学び三洋電機のエンジニアとなったように、小松家は理系の血筋であったようです。

その中にあって実少年は体が病弱だったためスポーツには見向きもせず、歌や漫画・映画・読書に熱中。

大東亜戦争終戦時14歳だった彼は、「生き残ってしまった者の責任」を考え、将来文学、それもSF小説の道に進むことは考えたそうな。

 

第三高等学校から京都大学文学部イタリア文学科に進学した小松さんは、在学中 『京大作家軍団』 の活動に参加。

反戦の思いから一時期共産党に入党した時期もありましたが離党し、この時期様々なペンネームで漫画作品を『漫画王』などに掲載。

 

大学卒業後マスコミへの就職活動に失敗し、経済誌の記者や父親の工場の手伝い、更にはアマチュア劇団の台本などを書いて生活を凌いでいた小松さんの運命を変えたのは、1959年12月に早川書房が創刊した 『SFマガジン』。

 

同誌に掲載されていたロバート・シェクリイの作品に衝撃を受けた彼は、自身もアメリカ流のSF作品を書こうと決意。

同書房主催の第1回空想科学小説コンテストに小松左京のペンネームで応募した 『地には平和を』 が努力賞に入選。 

更に第2回のコンテストでは『お茶漬けの味』が第三席に選ばれ、福島正実編集長から高い評価を受けた小松さんは、同誌からSF作家としてデビュー。

 

※ちなみにペンネームの〝左京〟は、姓名判断に凝っていた兄から「五画と八画の文字を使えば売れる」と言われたことと、「左がかっていた京大生だったから」ということで、選んだそうな。

 

その後さまざまな作品を発表し、直木賞候補にもなった小松さんの作品・・・実は私、SF小説はあまり読まなかったため、殆ど読んでいません。

しかしそんな私でも読んだのが、1964年から執筆を開始し9年の歳月をかけ1973年に光文社から刊行された大作、


 『日本沈没』
 

    

 

地殻変動によって日本列島が沈む・・・という当時においては荒唐無稽なストーリーで、出版社が 「長過ぎて売れない」 と尻込みしたものの、蓋を開けてみれば発売直後から話題集中。

上・下巻で380万部以上を売り上げて〝空前の大ベストセラー〟といわれ、当時の実力政治家・田中角栄氏や福田赳夫氏も読んだとか。

この作品を書くにあたり、小松氏は当時発売されたばかりのキャノン社製の電卓(12万6千円)を買い込み、それを駆使して計算を積み重ねながらストーリーを組み立てたのだそうな。

 

       

 

阪神淡路大震災や東日本大震災を経た今あらためて読み返すと、当時は認知されていなかったプレート理論を導入しているところ、また映画 『2012』 のような民族移動のような壮大な構想・先見性には舌を巻くばかり。

というか、当時は荒唐無稽なフィクションとして読んでいたのに、あながち在り得ないことではない、という恐怖すら感じます。

同作が、映画化・漫画化2回、テレビ・ラジオのドラマ化もされたのも、十分納得できます。

同作品で日本推理作家協会賞を、また1985年に 『首都消失』 で日本SF大賞を受賞した小松さんは、日本におけるSF作家の第一人者として、押しも押されもせぬ存在に。


また原作は読んでいませんが、角川映画 『復活の日』 は楽しませてもらいました。

長編小説から短編まで数多くかつ幅広い作品を残し、『日本SF大賞』や 『小松左京賞』 を創設して日本のSF小説の裾野を広げ、新惑星にまで名前が冠せられた小松さんが肺炎で80歳の人生に幕を下ろしたのは、2011(平成23)年7月26日のことでした。

1970年の大阪万博ではテーマ館のサブ・プロデューサーを、また1990年の国際花と緑の博覧会では総合プロデューサーを務めるなど文学界以外でも活躍し、『日本沈没』 なんて作品を残しながら日本の発展に大きく貢献したマルチタレントのご冥福を、改めてお祈り致します。
笑3

 

 

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