中高年世代の方・・・この顔に見覚えがあるでしょうか?
「う~ん、どこかで見たような」って方が多いかもしれませんが、名前を聞けばきっと「あぁ、あの・・・」と思い出すはず。
一時期、盛んにテレビ出演されていたこの方は、城南電機の
宮路 年雄 社長
今日はこの名物社長の命日・・・早いもので、没後20周年にあたります。
宮路社長は、1928(昭和3)年に現在の和歌山県日高郡中津村に生まれました。
父親は地元では有数の材木商だったそうですが、次男だった彼は地元の県立和歌山工業学校に進学。
戦時中は学徒動員で兵庫県明石市の飛行機部品工場で働き、戦後は運輸通信省の機関車整備に従事し、1949年以降は国鉄に移籍。
しかし1951年に退職し、父親からもらった1,000万(現在の貨幣価値で7千万~1億円)を元手に大阪で自動車部品の販売・修理を行う阪和電機を兄と共に設立してから、経営者人生がスタート。
しかし同社は経営不振であえなく倒産。 その後パチンコやスマートボール台の製作会社を立ち上げるも、また失敗。
ムシャクシャしたのか、親からもらった金でキャバレー通いにのめり込み、ねんごろになったホステスと結婚。
そして転機は1955年に上京して上野のバッタ屋と知り合い、家電の安売りビジネスを知ったことでした。
3年ほどブローカーをした後、1961年に会社オーナーの運転手を経て、同年に信光電気有限会社を設立。
1968年、世田谷区内に念願の家電安売店・城南電機1号店を出店。
※『城南電機』 は単なる屋号であり、正確な彼の肩書は〝信光電気有限会社 代表取締役社長〟でした。
宮路社長は、資金繰りや大量在庫に窮したブローカーや家電販売店から〝現金買取・返品なし〟の条件で商品を安く買い集め、定価の半額前後という破格の安値販売で急成長。
最盛期には都内に6店舗を構えました。
そして1994年に冷害によるコメ不足でタイ米など外国産米が出回る中、「日本人は日本の米を食いたいんじゃ」 と、秋田県内であきたこまちのヤミ米を30トン近く買い付け、しかもその半値という原価割れ価格で販売し、行政指導を受けたことも。
しかしこれは「それで注目されれば売上増につながる」という宮路社長流の戦略・・・実際これでテレビ取材が殺到し、宮路社長は時の人に。
その後盛んにテレビに出演するようになりましたが、同様の理由でギャラは受け取らなかったと言います。
6,000万円のロールスロイスを乗り回し、手には2カラットのダイヤが嵌め込まれたロレックスの腕時計。
更に月50万円は勝つと豪語してパチンコの指南書まで出版。
それもこれも、全て注目を集めるための手段だったのでしょうが・・・常にアタッシュケースに現金数千万円を入れて持ち歩く姿を放映され、またご本人も身長160cm未満と小柄だったことから、生涯に6回も強盗被害に遭ったとか。
しかし彼は 「戦時中、何回も受けたアメリカ軍の機銃掃射に比べたら、チンピラみたいな強盗なんて物の数じゃない」 と平気だったとか。
体は小さくても、肝は据わっていたようです。
海外に社員旅行した際には、免税枠を利用して社員にブランド品を買わせ、帰国後に回収して販売し、その利益を社員旅行費に還元したというアイデアマン(?)だった宮路社長ですが、あまりに精力的な活動に身体が悲鳴を上げたのは、1998年。
5月5日に肺炎で緊急入院したものの、4日後の9日に69歳で呆気なくこの世を去ってしまいました。
彼の死後、急遽息子さんが会社を継いだものの取引先が相次いで撤退、城南電機は翌月15日に全店舗閉鎖に追い込まれて廃業。
計算ずくで会社を大きくした宮路社長ですが、自分がいなくなった後のことまでは考えていなかったようです。
オーナー企業の経営の難しさを教えてくれた事例でもありました。
安売り王として一世を風靡した名物社長のご冥福を、あらためてお祈り致します。