土光敏夫氏といえば、経営不振に喘ぐ石川島播磨重工業・東芝の社長に就任するや両社を再生させ、経団連の第4代会長・第二次臨時行政調査会の会長をも務めた名経営者。
〝ミスター合理化〟と呼ばれ、自らもバス通勤するなど質素な生活を貫き、食卓にいつも並ぶところから〝めざしの土光さん〟といわれ、庶民の喝采を浴びた方でした。
今日は、その土光さんの御母堂、
土光 登美 さん
の命日にあたります。
彼女の人生を顧みると、まさに 「この母ありて、この子あり」・・・あまり知られていませんが、実に凄い女性なのです。
登美さんは1871(明治4)年、伏見家の10人兄弟姉妹の3番目として岡山県御津郡に生まれました。
当時の女性としては珍しく気性が激しく向学心の強かったそうで、東京に出て勉強したい気持ちが強く、家出の機会を狙っていたそうな。
しかし19歳の誕生日直前に、実家から1里離れた場所で米穀肥料仲買をやっていた土光菊次郎と結婚。
土光家の本家は大地主だったそうですが、男勝りな登美さんと温和な菊次郎さんとは仲が良かったそうで、2男3女をもうけました。
(※長男は1歳で夭折。 敏夫氏は次男。)
登美さんと1歳頃の敏夫氏
生まれ育った岡山は日蓮宗の信仰が篤い土地柄で、登美さん自身も熱心な信者であり、6歳の頃から 『法華経』 を読み親しんだとか。
また小さな我が子を背負って畑仕事をしながら本を読んだといいますから、まさに〝女・金次郎〟とも言うべき勉強家。
そんな彼女の〝個人は質素に、社会は豊かに〟という信念は、確実に次男・敏夫氏に受け継がれ、それがめざしの土光さんと言われる生活信条に受け継がれたと言えましょう。
そして70歳になった登美さんから子供たちに対して驚くべき宣言が飛び出したのは、日本が米英に宣戦布告する直前の1941(昭和16)年9月・・・夫・菊次郎さんの一周忌法要が行われた日のこと。
「国が滅びるのは悪ではなくて、国民の愚による。」
「次の時代の国民を養成するのは母親の責任である。
そのための女子教育をしっかりやらなければならない」
という信念に基づき、学校を建てると言い出したのです。
高齢の上に資金も土地もなし・・・家族は全員反対したのですが、登美さんの決意は変わらず。
早速友人・知人に片っ端から協力依頼をしたのですが、その殺し文句が凄かった!
「私が亡くなって香典をくださるなら、学校を建てるために必要ですから、今生きている内にください。」
こう言われて断れる人は、まずいないでしょう。
その熱意に心を動かされた人々からの厚志が集まったことで決意表明後の僅か2ヶ月後に土地の賃貸仮契約ができ、すぐに着工。
半年も経たない1942年4月には見事開校に漕ぎ着けたのです。
校名は 『橘女学校』・・・由来は、帰依する日蓮上人の紋章が〝たちばな〟だったことと、校舎が建てられた地が、神奈川県橘郡旭村だったから。
『正しきものは強くあれ』 (宮野 澄・著 講談社・刊)
「私はなぁ、子孫に金を残して、かえって怠け心を起こさせてはいけませんから、できるなら学校を立てて世の子女の教育をしてみたいと思うのですがナ。」
そう友人に語った夢を果たし、また自らも同校の理事長も務めた登美さんがこの世を去ったのは、学校の開校からちょうど4年後・・・終戦直前の1945(昭和20)年4月21日のことでした。
登美さんの後任理事長は敏夫氏が務めて学校を維持・・・同校は現在 『橘学苑中学校・高等学校』 として、横浜市鶴見区獅子ヶ谷の土光敏夫氏のかつての自宅の真向かいで運営されています。
そして同校には、上の著書名と同じ登美さんの言葉であり、教育理念の一つである
「正しきものは強くあれ」
と刻まれた石碑が建てられているそうな。
明治の激動期を生き抜き、執念で学校を築いた強き母の言葉は、ズシンと私たちの胸に響きますネ。