飛行機や船舶に爆弾を搭載し、操縦士もろとも敵に突っ込んでいく特攻隊。
特にその名を後世に残すこととなる、海軍によって組織された
しんぷう
神風特攻隊
が初出撃を敢行したのが、今から72年前の今日・1944年10月21日だったそうです。
(※一般的に〝かみかぜ〟と言われていますが、正しくは〝しんぷう〟)
戦局が悪化の一途を辿り、軍事物資不足の中で攻撃精度を上げるために考え出されたという 〝特別攻撃〟 ・・・当初は一定の効果を上げてアメリカ軍を震撼たらしめました。
しかしやがては対抗策を考え出され、また飛行機の性能低下や操縦士の若年化に伴う技術不足も相まって、その殆どは目的を達せぬまま海に墜落したとか・・・。
そして特攻隊員には表向き〝志願制〟を採ったとされていますが、実際には志願兵が集まらなかった部隊もあり、上官からの命令で隊員に指名された者も数多くいたといわれています。
神風特攻隊として最初に敵艦に突っ込んで戦死し〝軍神〟として畏敬された関行男大尉も、実は命令により隊員となったそうです。
特攻第一号 関行男大尉
現代は半ば洗脳され、「戦争反対!」 と 国会前等でデモをしている若者がいます。
その彼らと同じ17~25歳だった当時の若者が、国(上官)から 「死んでくれ」 と言われた時・・・果たしてどんな心境だったのでしょうか?
隊員たちは 「天皇陛下万歳!」 と叫んで敵艦に突っ込んで行った、とよく言われます。
しかし実際には殆どの隊員が 「お母さん!」 と叫んでいたとか、出撃前には失禁・失神する者もいたそうですが・・・それは人間としてむしろ当然のことでしょう。
ところで皆さんは、この特攻隊員の戦死者・・・何名だったと思われますか?
海軍の神風特攻隊で約2,500名、『回天』 その他陸軍も合わせると、実に約5,800名に達するのだそうです。
以下に、特攻隊員として出撃する直前に認められた、倉元利雄少尉(当時30歳)の遺書をご紹介致します。
倉元少尉(没後大尉に2階級特進)は、昭和20年2月15日に三重県亀山飛行場に近い熱田神宮で結婚式を挙げました。
妻・喜美子さんとお母さんは激しい空襲を避けるため、挙式当日に帰郷。
その後喜美子さんは、4月13日から第六十振武隊が宿舎としていた料亭隣の旅館で出撃を待つ夫と同居。
しかし翌5月11日、倉元少尉は第六十一振武隊々長として、隊員3名と共に出撃・・・還らぬ人となったのです。
新婚生活は、僅か1ヶ月でした。
そして翌年1月27日、喜美子さんは女の子を無事出産。
この遺書は、妻と、そして少尉が抱けなかった愛児に宛てたものです。
喜美子
出発の時は許して呉れ。
御許(みもと)を愛すればこそ一時をも悲しみをさせたくない一心にて
一杯だった、決して嘘を言うつもりではなかった。
(特攻隊に参加したことを隠していたが) どうか元気を出してあらゆる
苦しみ、悲しみと闘って行っておくれ。
強い心で生きて行ってくれる事を切に切に望む。
では只今より出発する。
御許の幸福と健康を祈る。
喜美子
有難う 有難う 俺は幸福だった 喜んで征く
愛児よ
もし御許が男子であったなら 御父様に負けない 立派な日本人になれ
もし御許が女子であったなら 気立てのやさしい女性になってくれ
そして御母様を大切に十分孝養をつくしておくれ
(やがて生まれてくる)愛児へ
命名 倉元 宏
命名 倉元 遼子 昭和二十年五月十日 出撃前夜
( 神坂 次郎・著 『今日われ生きてあり』 より 一部口語体に変換)
後列・左から4人目が倉元少尉
学生諸君へ。
修学旅行でディズニーランドやスカイツリーに行って友達と楽しい時を過ごすのもいいでしょう。
しかし上京したら、必ず靖國神社に参拝し遊就館を見学してください。
そして君たちと同年代の若者が、どんな気持ちで戦い散ったのかを、是非その目で確かめて欲しいのです。
そして、教育関係者の皆さんへ。
反日国である韓国に修学旅行を企画するくらいなら、生徒を是非靖國神社や鹿児島の知覧特攻平和会館に連れていくべきです。
私たちが平和な暮らしを享受しているのは、先人の犠牲があったればこそ・・・その感謝の気持ちを生徒たちに植え付けることこそ、教育者としての正しい姿勢でしょう。
あらためてお国のため、そして愛する家族を守るために尊い命を捧げた特攻隊員のご冥福を、衷心よりお祈り致します。