勤 勉 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

私が通っていた小学校には、この方の銅像がありました。
それは、おそらく他の学校でも同様だったはず。

「ああやっていつも勉強していないと、偉くなれないゾ!」

などと先生にハッパかけられたものですが・・・今日は、その薪を担いで本を読む〝勤勉のモデル〟

 二宮 尊徳

の命日・没後160周年にあたります。


尊徳(※一般的に〝そんとく〟と言われますが、正しくは〝たかのり〟)は天命7(1787)年、相模国栢山(かやま)村 (現在の小田原市) に、比較的裕福な農家の長男として生まれました。


しかし度重なる酒匂川の氾濫により田畑が荒れ、更に14歳の時に父を、その2年後には母をも相次いで亡くしてしまったため、一家は離散。


伯父の家に預けられた金次郎は農業に励み、薪を拾ったり捨てられた米粒を拾って育てたりするなどの知恵を使って収入を増加させ、20歳の時に生家の再興を果たしたのだそうです。


その後、小田原藩家老の服部家に奉公し財政を再建すると、その手腕を買われて各地から依頼が殺到・・・約600ヶ村の建て直しに成功したといわれています。


日光山領の経営に当たっていた安政3(1856)年の今日・10月20日、現在の栃木県今市市で69歳の生涯を終えました。 


       


子供の頃、わらじを編んで金を稼ぎ、父のために酒を買ったとか、伯父の家に預けられていた時には、寝る間も惜しんで読書をし、油代がもったいないと伯父に言われると、荒れ地に菜種をまいて収穫した種と交換して油を手に入れた。

また天保4(1833)年の初夏、ナスを食べた時に秋ナスの味を感じ、地上は初夏でも地中は既に秋になっていると考えた尊徳は、桜町(※現在の栃木県真岡市)の農民にヒエを播くよう指示、案の定その年は冷害・凶作に見舞われたものの、桜町では餓死者を一人も出さなかった。

・・・等々、幼少期から数々のエピソードを残した尊徳は、内村鑑三の『代表的日本人』の中でも、5賢人の一人として海外に紹介されています。


まさに勤勉の見本のような尊徳翁ですが、以外にも学者や僧侶を好まなかったそうな。 


それは、あくまで彼が理屈ではなく、実践を重視したのがその理由だったとか。(どこぞの憲法学者に聞かせてやりたい・・・。)


そんな尊徳翁が、自ら残した『報徳訓』を以下にご紹介します。


  父母の根元は天地の令命にあり

  身体の根元は父母の生育にあり

  子孫の相続は夫婦の丹精にあり

  父母の富貴は祖先の勤功にあり

  吾身の富貴は父母の積善にあり

  子孫の富貴は自己の勤労にあり

  身命の長養は衣食住の三にあり

  衣食住の三は田畑山林にあり

  田畑山林は人民の勤耕にあり

  今年の衣食は昨年の産業にあり

  来年の衣食は今年の艱難(かんなん)にあり

  年々歳々報徳を忘るべからず


細かい解説は無くとも、その意味合いはお分かりいただけるはず。 

いかにも自然や農業を重視した尊徳翁らしい言葉といえましょう。


現代社会で欠けている事柄が列記してあるように、私には思えるのですが・・・皆さんはどう感じられるでしょうか?


この尊徳翁の教え・・・実は海外で評価されつつあり、中国では2003年に『国際二宮尊徳思想学会』が設立され、さらには2005年、大連市に『中国東北二宮尊徳研究センター』が立ち上げられたとのこと。

日本が孔子を重んじ、中国で尊徳が評価される・・・何という皮肉。


今こそ私たち日本人は、海外に遅れることなく、我が国の偉大なる先人の教えに謙虚な気持ちで耳を傾けるべきでしょう。 


ところで最近、学校から尊徳の銅像が次々と消えているそうな・・・。

何でも、「あの歩きながら本を読む姿を真似したら、交通事故に遭いかねない」 というのが、撤去の理由だとか。

歩きスマホじゃあるまいし、そんな理由で尊徳の存在を学び舎から消し去って良いのでしょうか・・・。


現在の教育現場を天上から見つめる尊徳翁の心境は、如何に?うー



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