画 聖 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

世界的に有名な画家であるセザンヌやゴッホ・・・彼らが天才であることは間違いないと思いますが、その彼らから〝画聖〟と仰がれたのが


 フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ
     Ferdinand Victor Eugène Delacroix


今日は、この19世紀を代表するロマン派画家の命日にあたります。


        


1798年にフランス・パリ近郊で生まれたドラクロワ・・・父親は外交官のシャルル・ドラクロワと言われていますが、最近ではウィーン会議のフランス代表だったタレーランだったという説が有力視されています。


3歳の時に家族でボルドーに引っ越し、そこで音楽や文学の才能を見せ始めたそうですが、7歳の時に父親を、そして16歳の時に母親をも亡くした彼の画才を高く評価した叔父の勧めで、ゲランという画家のアトリエに入門。


そこで先輩のジェリコーに出会い、彼はその影響からロマン主義の絵に惹かれていきます。


18歳でフランス国立美術学校に入学、デッサンや彫刻のスケッチなどの基礎や新古典主義の画法を学びましたが、彼に画家の道を決意させたのはルーブル美術館の名作の数々だったとか。


そして1822年に 『ダンテの小舟』 でサロン展に入選すると、その2年後に 『キオス島の虐殺』 を発表。


この絵は実際に起きた事件を描いた斬新なもので、当時まだ古典主義が主流だったサロンで賛否両論を巻き起こしました。

結局この問題作はフランス国家が買い上げましたが、この作品を契機として時代は確実にロマン派へと移行していきます。


しかし彼自身はロマン派画家といわれることを嫌っていたそうで、彼の描く人物はむしろ写実的・・・しかしその題材はダンテ、シェークスピア、ゲーテなどの文学作品に関連した劇的なものが多いのが特徴。

そして科学的に色彩を研究し、原色と補色を隣り合わせで使うことで色彩を際立たせています。

おそらく彼の作品の中で最も認知度が高いのが、1830年に発表した『民衆を導く自由の女神』でしょう。(


      

一時期フランスのフラン紙幣に使われたこの名画では、女神が手にしているトリコロール(三色旗)の赤がひときわ目立っているのが分かります。

そして1832年には友人だったモルネー伯爵の誘いで政府使節団の記録画家としてモロッコ・ナイジェリア等への旅行に参加。


北アフリカの地で強い太陽光と鮮やかな色彩は、彼のその後の色使いに大きな影響を与えたといわれ、現地で描いたクロッキー・水彩画はフランス美術史の中でも重要な位置を占めているとか。

まぁピアノ好きの私としては、彼と親交のあったショパンと彼の恋人ジョルジュ・サンドの肖像画が最も印象的ですが・・・。(

  


1840年代からは政府から依頼された大聖堂や宮殿の大規模な装飾画制作をメインに行うようになったドラクロワは1855年のパリ万博でも成功を収め、1857年には美術アカデミーの会員に選出されます。

しかし生まれつき病弱だった彼は40歳代から健康を害し、1863年1月以降病状を悪化させ同年8月13日に65歳で天に召されました。

生涯に残した作品は油絵835点をはじめ水彩画・バステル・スケッチ等々で計9,000点以上。


そして絵画とは別に、彼は1822年から一時中断はあるものの亡くなる直前まで日記を遺しており、そこには当時親交のあった前述のショパンを始めユゴーやシャブリエなど当時の文化人との交流や交わした芸術論などが書き記されているとか。


フランス語版では最近改訂版が出されているそうですが、日本語訳が出版されていないのは残念。

しかし彼の作品と経歴をコンパクトな手のひらサイズにまとめた書籍があります。


 『ドラクロワ』(新潮美術文庫)


      

通勤途上にスマホをいじるのも結構ですが、たまにはこういった芸術作品を眺めるのもよろしいかと・・・。

その色使いはルノワールら印象派画家にも大きな影響を与えたという〝色彩の魔術師〟の冥福をお祈り致します。笑3



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