鬼 平 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日は、おそらく10~20年前の日本で最も有名だった、そして最も毀誉褒貶の激しかったであろう弁護士、


 中坊 公平


の命日・一周忌にあたります。 


中坊氏は1929年に京都市で旅館を営む裕福な家に生まれました。

中学時代は学徒動員で工場で働くという経験をした中坊少年は、同志社大学を中退して京都大学法学部に入学。

1954年に3回目の挑戦で司法試験に合格、司法修習生を経て1957年に弁護士登録


1970年に大阪弁護士会副会長に就任した彼の名を一躍有名にしたのは、その3年後・・・被害者延べ12,000人以上、内死者130人を出した 『森永ヒ素ミルク中毒事件』 の原告側弁護団長に就任したことでしょう。


実はこの時に国や森永製菓を訴えていた弁護団がアカ呼ばわりされており、参加を誘われていた中坊氏は同じ思想の持ち主だと思われるのがイヤで躊躇したそうな。


しかし小学校教師から弁護士になったという父親に相談したところ、

「子供に対する犯罪に右も左もあるか! 人様のお役に立とうかという時に迷うとは・・・お父ちゃんはお前をそんな情けない子に育てたつもりはない!」


と一喝されたとか。


その後の中坊氏の弁護活動は、もしかしたらこの一言がバックボーンになったのかもしれません。


        ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


その後1984年に大阪弁護士会会長に就任。


その翌年にはペーパー商法で多くの被害者を出した『豊田商事事件』の破産管財人となり、従業員に支払われた給与の所得税を税務署に返還させるというウルトラCに成功し、被害者への配当を増やすなどして世間から喝采を浴びました。


1990年には日弁連会長、1996年には旧住宅金融専門会社(住専)の不良債権を回収する住宅金融債権管理機構の初代社長に就任。

暴力団関係者と渡り合って債権を回収したり、TV番組に出演して難しい法律問題を解説したり多くの著書を出版するなど活躍の場を広げ、〝平成の鬼平〟と呼ばれました。  


保険会社勤務時代の私も仕事の参考になればと思い、この頃中坊氏の著書を何冊か読み、いろいろ勉強させていただきました。


      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


が・・・その中坊氏の命運は、21世紀に入ると大きく下降線を辿ります。

2002年10月、彼(と他3名)は住専問題で破綻した朝日住建の元監査役から詐欺罪で東京地検特捜部に告発されてしまいます。

債権回収時に同社の所有する土地の銀行・生保会社の担保権を抹消される際に虚偽の説明をし15億円を詐取した・・・というもの。


結局この問題では不起訴となりましたが、責任を取る形で中坊氏は住宅金融債権管理機構の社長を辞任したばかりか、2003年10月には大阪弁護士会に登録抹消を届け出。


しかしそれだけでは収まらず、中坊氏は自らがかつて会長を務めた大阪弁護士会の綱紀委員会が懲戒妥当と認定。


結局懲戒請求は時効のため却下されましたが、石もて追われる形で2005年11月に抹消届は受理され、弁護士を廃業しました。


その2年後に再登録を試みたものの、批判を受けて自ら取り下げ、その後は実家の旅館経営に携わるなどしたものの公の場に姿を見せることはなくなり・・・昨年5月3日、83歳で静かにこの世を去りました。


(橋下徹氏が出現する前は)知名度日本一の弁護士だった彼の葬儀は、ひっそりと家族葬で執り行われたといいます。

個人的には著書の内容やご本人の発言を聞く中で中坊氏を尊敬していた私には、彼がなぜこのように急坂を転げ落ちることになったのか、よく理解できません。

しかし強いて言えば、ご本人やその取り巻きが過去の債権回収の実績に傷をつけたくないばかりに無理をした・・・ということでしょうか?

弁護士制度の改革などにも関わった中坊氏の言動については、同業者の評価も功罪相半ばといったところ。


有名になり過ぎたことで、嫉妬から同業者に足を引っ張られた部分があったのかもしれません。

しかし中坊氏がいなければ、多くの債権者はもっと泣きを見たことは疑いないでしょう。

弁護士の割には意外と口下手だったという〝平成の鬼平〟のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3



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