1985年8月12日 午後6時56分。 乗員・乗客524名を乗せた日本航空123便・ボーイング747ジャンボジェットが、群馬県多野郡上野村・高天原山(御巣鷹山)に墜落。 単独の航空機墜落事故としては史上最悪、520名もの犠牲者を出しました。
あの日あの時、私は自宅で夕食を摂りながらTVを見ていました。
午後7時半過ぎに突然テロップで流された〝東京発大阪行きの日航ジャンボ機の機影がレーダーから消滅〟というニュース速報を見て、「これはエラいことになった」 と背筋が寒くなったことを覚えています。
翌朝から全局で報道された事故現場からの中継を食入るように見続けた私は、奇跡的に生存者として発見された川上慶子さんの自衛隊ヘリによる救出劇を、今でも鮮明に記憶しています。
当時発売されていた写真週刊誌は現場の 「無修正写真」 を掲載し、事故の凄惨さを伝えました。 その後も山崎豊子氏の 『沈まぬ太陽』 や、横山秀夫氏の 『クライマーズ・ハイ』 などの小説や映画・ドラマ等の題材として取り上げられ、今もってその衝撃を忘れることはできません。
またこの事故では、歌手・坂本九さんや阪神タイガース球団社長、ハウス食品工業社長が命を落とし、反対に明石家さんまさんが搭乗キャンセルで命拾いするなど、〝人間の運命〟というものを考えさせられました。
<「FOCUS」最終号に掲載された現場写真>
圧力隔壁の金属疲労による破断により尾翼に異常な圧力がかかり破損、油圧システムが故障し操縦不能に陥ったことが墜落の原因とされましたが、未だにいくつかの疑問・矛盾点が指摘されてはいます。
しかし、私がこの事故に関して近年最も印象的だったのは、数年前に公開されたボイス・レコーダーの音声。
操縦不能に陥ってから墜落に至るまでの32分16秒にわたり、コクピット内の機長らクルーが必死に機体をコントロールしようとする緊迫したやり取りは、聞くたびに私の心を強く揺さぶるのです。
「気合を入れろ!」 「頑張れ~!」 「パワー!パワー!」・・・・
途中 「これはダメかもわからんね」 と呟きながらも、最期までクルーを叱咤激励し、乗客を救おうと奮闘する高濱機長の声。
事故当初は操縦ミスが事故原因のひとつとされたため、乗務員やその遺族に批判的だった乗客の遺族がこの音声を聞き、多くの方が非難したことに対する謝罪や感謝の言葉を綴った手紙を乗務員遺族に送った・・・という話を聞き、少なからず救われた気持ちになったものです。
そして数日前、今まで固く口を閉ざしていた遺族の方々が近年この事故について語るようになった・・・というニュースを目にしました。
その理由は、「この事故を知らない若者が増えてきたから」 だというのです。
私にとっては忘れられない大事故ですが、あれから四半世紀も経過しているわけですから、20歳前後の若者が知らないのは当たり前かもしれませんネ。
その番組では、日航の客室乗務員として勤務する (事故の起きた年に生まれた) 25歳の女性が、研修の一環として羽田にある 『日本航空安全啓発センター』 に展示されている残骸を見学し、御巣鷹山の現場に足を運ぶ様子を放送していました。
この事故で9歳の息子を亡くした母親の詩集を読んで涙する彼女・・・日航に勤務する社員の皆さんには、この教訓を是非生かして欲しいと願うばかりです。
そして私を含め事故を知る方々にも、この悲劇を風化させず後世に語り継いでいく義務があると思うのです。
その想いを込めて、ダッチロールを繰り返す機内で絶望的な死の淵に立たされている最中に記された、愛するご家族に宛てた一通の遺書をご紹介します。
これは、大阪商船三井船舶・神戸支店長であった河口博次さん (当時52才) の背広ポケットから発見されたもの。
マリコ
津慶
知代子
どうか仲良く がんばって
ママをたすけて下さい
パパは本当に残念だ
きっと助かるまい
原因は分らない
今五分たった
もう飛行機には乗りたくない
どうか神様 たすけて下さい
きのうみんなと 食事をしたのは
最后とは
何か機内で 爆発したような形で
煙が出て 降下しだした
どこえどうなるのか
津慶しっかりた(の)んだぞ
ママ こんな事になるとは残念だ
さようなら
子供達の事をよろしくたのむ
今六時半だ
飛行機は まわりながら
急速に降下中だ
本当に今迄は 幸せな人生だった
と感謝している
今、河口さんと同じ年齢になった私がもし同様の立場に置かれたとしたら・・・ダッチロールを繰り返す機内でこれだけの文章を書けるのか? と問われれば全くその自信はありませんし、絶望の淵で遺書をしたためた河口さんの心情を慮る時、私は涙を禁じ得ません。
自分が今、こうやって生きていられること・・・いや、生かされていることを心から感謝しなければ。
あらためて、520人に上る犠牲者のご冥福を心よりお祈り申し上げます。